2011年8月27日土曜日

中山道第13日目「加納~鵜沼」22;12;16

中山道第13日目   「加納~鵜沼」    221216 
思っていたより少し長い道程だった 快晴 所要時間(グロス)7時間30分 
歩数約38,193(携帯)22,276歩(万歩計)

本日の第1ミス。ジパングクラブの切符を既に買っておきながら、東福寺駅ではICOCAで改札を通り過ぎた。(しまった!ジパングの切符で入るのだった!)と改札に引き返し訂正してもらった。この朝、JR奈良線が7分遅れたため京都で「ワイドビュウひだ号」に乗り遅れないかと心配したが走ってぎりぎり間に合った。
2のミスは、中山道を歩いている途中、新加納地区辺りで今日の道程の参考にするコピーメモを落としてしまったこと。
前回も今日もお江戸日本橋からのウオーカーに一度も会わなかった。ただ一人それらしき人に会ったが中山道踏破目的ではなく、京都の住人で「加納城跡を観に来た」人だった。

さて今日はJR岐阜駅から南の方へ駅前大通を歩き、中山道との交点を左折した。
駅前通の「きんとん」の幟が立っているお菓子やさんの前に「ここは中山道右美濃路」の石碑。この彫り文字、実は左と彫ってあるのか、右か自信がない。建っている石碑の位置から判断して右でも左でも間違ってはいないと解釈できる。工事中の白い塀の前にぽつねんと建っている「中山道加納宿脇本陣跡」の石碑は大きさといい古さの感じからまるで墓石のようである。
「加納天満宮」の鳥居を見て、黒塀の家の前にも「中山道加納宿脇本陣跡」の石碑。「皇女和宮御仮泊所跡」の石碑に続いて皇女の「歌碑」が建っている。「遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」。しかし500km2千人おとも付きのバージンロードはどんな雰囲気であったのだろうか。本によってはこの時の行列は5千人とも書かれている。仮に中を取って3千人として、狭かったであろうその時代の道幅で1メートル毎に3人歩いていたとしたら、この行列の最前列と最後尾の間隔は1キロメートル。食事の場所と量、宿泊場所、いろいろ考えるととても大変だったであろう。
加納宿は車道も走っているちょっとした町の中である。暫く行くと「中山道加納宿等分本陣跡」と書かれた石碑。その片面には「明治天皇御小休所跡」の彫り文字。
暫く行った所で、冒頭に書いた「加納城跡」を見に来たという人の話していた「加納城大手門跡」の大きな石碑に出会った。しかし残念ながら我々はこの旧跡見学を時間の関係でパスした。

御鮨街道という文字が彫られている

加納宿脇本陣跡の石碑
「大会山専福寺」を過ぎふと足元の会所に気が付いた。「中山道御鮨街道」と鉄製の会所蓋に彫ってある。(なに?お鮨?)しかしゆっくりすし屋さんを探す余裕はない。橋の袂に見つけたのは「中山道加納宿東番所跡」の石碑。「秋葉神社」を過ぎ名鉄線「茶所駅」に出た。この字は「チャジョ」と読む。郵便局、八幡宮、細畑の一里塚の看板。ここの一里塚は小さく、しっかり形が整っていた。覚えきれないほどお寺が多い。
岐阜市蔵前というところで標識を見たら鵜沼まで13,2kmとなっていた。感覚的には4kmは歩いたと思っていたので「うわあ、未だ13km以上か」と思った。
昼ごはんの場所を探している間に各務ヶ原市に入った。思いついて市役所に食堂はないかと思ったので受付で聞いてみた。外部の人間ですが食堂を使えるかどうか。快く応じてくれたので地下の食堂へ行った。360円のうどんの美味しかったこと!暖かいうどんと持参の三角おにぎりで満腹になった。
郵便局は今日3局あった。各務ヶ原のそれは本局であった。長い「なか21モール」商店街を通り抜け三柿野駅を通り過ぎると各務ヶ原駅の看板。この辺りから早くも周囲は夕方の雰囲気になってきた。鵜沼宿街道の看板は暗くて見えにくかった。暗くなって時間も遅くなったが予定の電車をパスして鰻の店「うな神(じん)」で「ひつまむし」にありついた。店は客がなく我々だけで主人とゆっくり話が出来た。主人の姓が「新(あらた)」というので屋号もこの名前にしたとのこと。帰りは外まで見送りに出てこられた。「駅へは近道の左の方から行ったほうが良い」と、道を教え見送ってくれた。結局この日は午後78分鵜沼駅発に乗った。


英泉「鵜沼の宿」
木曽川の左岸犬山側から犬山城越しに鵜沼の宿を眺めた所である
なお犬山城は現存最古の城として国宝に指定されている

加納宿は美濃16宿の中で唯一の城下町であった。右奥に
見えているのは加納城である。この絵は加納城から出た城主
の行列を宿場の入り口辺りから見て描いたものであろう、と
言われている。

                         広重「加納宿」

0 件のコメント: