2011年8月31日水曜日

中山道第18日目「中津川~落合~馬篭~妻籠~三留野」23・5・15~16


中山道第18日目
「中津川~落合~馬篭」「馬篭~妻籠~三留野」
 (2351516日一泊)
道に覆いかぶさる枝垂れ桜

515日(日)「中津川~落合~馬篭」
  所要時間 5時間10分  歩数 17,3537歩

恵那山とともに歩く











当初は13,14日の予定であったが雨と台風1号の予測で2日日程をずらした。お蔭でこの2日間は快晴。夏日を思わせる暑い日になった。

新幹線「ひかり」とワイドビュー「しなの」を乗り継いで中津川駅には午前1048着。
駅前の商店街を南へ300メートルほど歩いて左折。ここが中山道だ。
この地方、駅前通はどこともによく似た景色、しかしここは少しだけ道幅が広い。
左折して前方を見るとインターネット氏も言っていた通りいきなり上り坂が見える。その坂の名前は「茶屋坂」となっていた。今日の8キロはほとんど上り一辺倒と覚悟はしていた。

(ハザマ)半兵衛元矩の顕彰碑を過ぎ坂を上りきると芭蕉句碑があった。「山路来て 何や羅遊かし 寿み連草」。誰もがよく知っている句だ。細い山道は石道であったがここはまだ落合の石畳ではない。「尾州白木改番所跡」尾張藩の木材搬出取締りの番所だったようだ。歴史国道中山道の石碑、常夜灯を過ぎると巨大な枝垂れ桜が道を覆っていた。時期外れだったのが残念。小さな村に入り「与坂立場跡」の石製の標識、村を外れると恵那山が雄大な姿を現わす。藤棚に咲く藤の花、「落合五郎兼行之城跡」という大きな石柱。この人は木曽義仲の四天王といわれた家臣の一人であったようだ。城跡もあった。

30歳代ぐらいの若夫婦に出会う。中山道歩きではなく一定区間の散歩らしい。
国道19号線なのか国道を跨ぐ橋を通る。そのあと「落合助け合い大釜」から「落合宿」に入る。この宿も文化元年と12年に大火に会ったと掲示板に説明されていた。
落合宿本陣跡には「明治天皇落合御小休所」の石柱脇本陣跡は現在人が住んでおられる様子。

「常夜灯」「高札場跡」を過ぎて程なくお待ちかねの石畳。入り口にはゲートが作られていた。「石畳を経て馬篭へ至る」。落合川にかかる「下桁橋」からちょっとした滝が望める。写真撮影。「医王寺の枝垂桜」「TBS連続ドラマ浅見家の悲劇」の立て看板「新茶屋の一里塚」を過ぎると、あった!「是より北、木曽路」の大きな石。昔はここが信濃路と木曽路の境」今は馬篭が岐阜県に編入されて実際の県境はもう少し先になっている。「信濃、美濃国境」の石柱も見える。民宿梅の家。「島崎正樹翁記念碑」(島崎藤村の父君)。「石屋坂」を上りきると「馬篭の宿」は目前だ。
「馬篭宿340m」の看板から。もう直ぐだ。しかし、今まで長い上り坂を歩いて来て追い討ちと最後の叱咤激励を促すかのように、宿の入り口へは短いが急峻な上り坂だ。

やっと馬篭宿へ着く。8キロを何時間かかったかな。

目指す今夜の宿泊所「岩茸旅館」は島崎藤村記念館の右隣にあった。荷物だけ置いて直ぐ宿場見物に宿の前の坂を登って行く。お土産やさんに南部鉄の風鈴(1200)が置いてあったので購入。若く見えるおばあさんがサービスにと小さなキーホルダーをくれる。30分以上費やして宿に帰る。 初日は終了。


 516日(月)「馬篭~妻籠~三留野」
      所要時間 7時間16分  歩数 19,954歩

今日も快晴。朝食の後9時に宿を経つ。少し坂を下った所にある「郵便局」に行って千円貯金。さあ第2日目のスタートだ。また少し昨日の続きのような坂が続く。村から少し坂を上ったところに恵那山が見える絶好のビュウポイントがあった。見事な風景が目の前に広がる。雄大な恵那山をバックにして記念写真。
車道から「右中山道」の標示に従って右の小道に入る。いかにも中山道といった細い感じのいい道だ。
「梨子の木坂」の石碑の後方に、熊の絵が書いてあってその下に「熊出没注意」の文字。持参の鈴をリュックに結ぶ。この辺り石畳の上り坂。少し入った所で60歳代?の一組の夫婦者に出会う。小休止した上り坂の左側に「十返舎一九の歌碑」(薄皮をむきし女と見えねども栗のこわ飯ここの名物)と読める。少し違うかな?馬篭峠をいっきに登りきる。頂上に来ると長野県と岐阜県の県境の表示板がある。馬篭峠頂上「標高801メートル」とある。
ここで一日一本のバスから降りてきた昭和5年生まれの老人に会った。ここまでバスで来て、妻籠への下り道だけ歩くのだそうだ。手には孫から預かったスキー用のストックを持っている。熊と戦うためですか?

さて、嬉しいのはここからは下り一辺倒だということだ。途中「いちこくお休み処」という建物前には巨大な枝垂れ桜。前後して歩いている8人組の男女グループをここで抜きさる。
「立場茶屋」の看板を見て「馬篭宿4,4km・妻籠宿3,9km」の標示看板。あと1時間余りの道のりだ。
「男滝・女滝」にやって来た。8人組のメンバーのリーダーは女性。「彼女はお金儲けも上手いんです」と、しんがりを歩いている男性の皮肉っぽい話。
道際の「棚田」に張られた水が美しい。「大妻籠」というところにやってきた。石碑には「中山道大妻籠右旧道・左志ん道」と書かれている。ここまで来ると妻籠宿へはあと1キロ足らず。
馬篭宿への入り口は急な昇りであったが、ここ妻籠宿はいつの間にやら宿場に入っていたという感じ。
「湯屋」というお店で、ざるそばと五平餅の昼食を摂る。「郵便局」を見つけたので例の千円貯金。この宿へは何十年前に2度ほど来ている。全体の印象としては余り変わった所がないように私には見えた。しかし、お店の人に聞いたのは「311日以降お客さんがめっぽう減った。とくに観光バスが入ってこなくなった」ということ。湯屋をでて暫くこの宿を散策。「妻籠宿本陣」「歴史資料館」「脇本陣奥谷」「明治天皇御休所」「県史跡妻籠城祉」「上久保の一里塚」は「街道の両側に築造され町内には4ヶ所あったが現在原形をとどめているのはここだけである」と説明されている。

何故ここにD51が?


三留野宿に近いあたりで機関車D51が野ざらしで道の横に展示されていた。山の中を歩いてきた人間には目の前に環境に似つかわしくないものが現れては少し度肝を抜かれる。
しかし三留野宿の最寄り駅である南木曽(なぎそ)駅はもう直ぐだ。
 南木曽駅は「三留野宿」の最寄り駅である。




                                                    
       広重の絵の中では「三渡野」と書かれている。

広重描く三留野宿
 




三渡野から野尻の間は険しい道であったという。が、広重はあえてのどかな田園風景を選んで描いた。
農家一家の待ちかねた春の到来を喜ぶ様が描かれている。


広重 妻籠宿





絵の描かれた場所は馬篭峠とも妻籠の南にある妻籠城跡近くの峠だとも言われているが定かではない。

2011年8月30日火曜日

中山道第17日目「大井~中津川」23・4・15



中仙道第17日目  「大井~中津川」

23415日帰り)前後のアクセスの関係で今日は日帰りにした。
           所要時間 6時間10分   歩数 22,474歩



このシリーズで始めて【こだま】を利用。車内は空いていた。1115分恵那駅から歩き出した。恵那駅は比較的新しく正面から見てシンメトリな構図の白い建物であった。

中山道へ入る道を素通りして、先ず向ったのは駅前の「中山道広重美術館」。800円の入場料と時間を惜しんで入館はせず入り口の売店で「広重の写真集」2000円を購入。そのあと郵便局へ行き千円の街道貯金をする。これで実際のスタートは1145分頃になってしまった。


 歩き出して直ぐに「阿木川」にかかる大井橋を渡る。橋の袂に立てられた看板の一部には「大井橋は当時(江戸時代)阿木川に架かる唯一つの橋で、参勤交代の大名や多くの旅人が渡ったものである」とある。旅館「いち川」「大井村庄屋古屋敷」宿役人「林家」の前には説明看板と「戸長役場跡」の粗末なたて看板が立てかけてある。

広重作 中津川


脇本陣、本陣跡を通り、先ず早速本日第1回目のミスを仕出かした。本陣跡を左折すべきところを真っ直ぐ坂を上ってしまった。しかしロスは僅か。往復600m15分。この時も町を行く地元の人に確認してわかった。「史跡大井宿本陣址」と彫られた大きな新しい石碑は 古めかしい建物の前に立てられていた。

寺坂、馬頭観音、紅色と白の桜が一本の木に咲き珍しくて綺麗だった菅原神社を過ぎ、関戸一里塚、根津神社を通り「甚平坂」でミニブレイク。「初蛙、広重の絵の峠かな」(鶏二)と書かれた石碑と広重の大井宿の絵の彫られた石碑。ここは旅人の足を止めさせるには格好の場所だ。広重の絵の彫られた石碑もある。

馬塚、庚申塔、広久手坂の石標識を過ぎ中津川市に入る。その後、知らぬ間に田園の中を歩いていた。「明治天皇茄子川御小休所」になった藤原家は「和宮や明治天皇が休憩された部屋、厠、表門などは当時のままに保存されています」と説明板があった。「尾州白木改番所跡」「茄子川村の高札場跡」。「明治天皇茄子川御小休所」になった藤原家は「和宮や明治天皇が休憩された部屋、厠、表門などは当時のままに保存されています」と説明板があった。「尾州白木改番所跡」「茄子川村の高札場跡」を過ぎた、とある家の玄関脇に真民さんの「念ずれば花開く」の石標識があった。


リーダーに引率され集団下校する生徒
このあと雨が降ってきた
 
資料館:この日休館だった
 「坂本立場跡」という小さな石碑を見たあと、地元小学校の生徒の 下校時間と重なった。20人ほどの小学生の列に紛れ込み、子供達と一緒に歩くことになった。3年前、琵琶湖西岸の海津大崎でやはり下校中の小学生と連れ立って何十分か歩いて楽しい経験をしたが、今回その時の事を思いだした。子供達と会った頃から雨が降ってきた。下校する子供達の足も少し速くなってきた。歩くにつれ道路の端に父兄の方々が子供を迎えに出てこられていた。最後のおじいさんと家のほうに角を曲がって行った子どもは学校までの距離が随分遠かった。
なおこの旅から自宅に帰って後、子供達の学校宛にあの日写した写真を引き伸ばして送ってあげた。皆で見てくれだろうか。

中平神明神社を過ぎ中津川の宿に入る。駒場村の高札場跡
、本陣跡を過ぎると中津川資料館を見かけたが、あいにくこの日は休館日であった。
ここから先の辻を左折すると数百㍍先に中津川の駅舎が見えてきた。




中津川から大井へと至る甚平坂辺りを描いたと言われている。
右手の松の後ろには恵那山。左手一番奥に小さく見えるのが御嶽山といわれている。
                                      

中山道第16日目「御嵩~細久手~大湫~大井」23・3・30~31


中山道第16日目「御嵩~細久手~大湫~大井」23330()31(木)
 所要時間第1日目7時間5分 歩数21,116歩 第2日目9時間15分 歩数32,921

     



4つの難所の峠の内の先ず最初の一つ「十三峠」をクリアした。










琵琶峠の石畳 この石畳の坂道は
私には大変印象的だった








中山道歩きは最初,草津からスタートし、後日、三条~大津間と大津~草津間を追補したので三条からの計算では今回が16日目になる。時系列で追わず、経路順に統一したいので京都三条大橋~大津(瀬田唐橋)を第1日目とする。従って今回は第16日目となる。

1500年の大杉
 
16日目にして初めて一泊中山道ウオークになった。これからは少なくとも一泊が必要になろう。今回は細久手の「大黒屋」旅館に泊まる。

前回と違い天気は晴れ。先日雨の駅だった「御嵩駅」前のお寺「願興寺」に入る。今日は時間があると思うので、立ち寄り場所にも十分時間をかけることが出来ると思ったのだが、結果的には終盤になって少し忙しかった。願興寺近くの「中山道みたけ館」へ入って展示物を見たが、さすがにゆっくり見る時間は無かった。インターネット氏(インターネット上で私が好んでいる手記)が書いているように、中山道に関する本がおいてあったので「中山道美濃十六宿展」」と「野次喜多の旅・道中記で辿る中山道の旅展」の2冊を買った。「商家竹屋」を少し覗き郵便局を見つけたので例の中山道貯金千円。

峠への入り口

宿場を抜けたあと国道に出る。また21号線だ。歩くことしばし少し細い舗装道路からいかにもそれらしき田舎道に入る。畑の傍に立つ石の標識「左細久手宿8300米」「右御嶽宿5500米」になっている。「牛の鼻欠け坂」と書かれた木製看板から、まさに旧中山道らしき坂道になる。石と砂の混じった歩き難い峠道だ。藤村の言った「木曽路は山の中」を思い出す。今日は上り8下り2の割合と考えている。あすはその逆の筈。「耳神社」の標識を過ぎると村落に入ってきた。説明板にある病気全快祈願をして報われた人々が「錐(キリ)」を供えに来る。やや進むと石畳の坂。坂道の登りの苦しさを忘れるために謡いながら登ったという「謡坂石畳(うとうさか)」。坂を上りきったところに広重の絵のモデルになった(今は)あばら家があり、その家の門口を塞ぐかのように広重の大きな古びた絵が立てかけてある。 広重の頃はこの家の前に小川が流れていたという。今日は昇り8下り2の行程だと事前に予測していたが、歩いてみるとこの予測はほぼ当たっていた。この峠の頂上に和宮が休憩した「御殿場」。休憩するだけで御殿が作られたのか。坂を登って東屋まで行ってみる。
さて、今日の特記事項はこのあとで出会った佐賀源一さんの履歴と現在の暮らしぶり。山中の一角に開いた空間といった広がりにサイロのようなものが見えたので「あれはなんだろう?」と興味を持った。眼の前の網の箱の中に小さな猪を見たのが持ち主の話を聞くきっかけになった。

ご自分でこのような碑をたてて猪や岩魚を飼って暮らす。


特攻隊の飛行士だったが復員後、バスの運転手になり、知事表彰を受けた大正14年生まれの小柄な男性。この山の中で猪を4匹捕まえ、あまごと岩魚(いわな)と鱒を人口清流を作って飼い、メタボだろうか体の一部が異常に膨れ、大きな治療袋を首から提げた犬と5匹の鴨と暮らしている。

ここで40分位は楽しい道草をした。70羽居た鴨の内65羽はアライ熊や狐や狸に攫われ、鶏はすべてやられたとのこと。もっとここで話していたかったが未知の長い道を歩く身には先も急がなくてはならない。

現在の「デルス・ウザーラ」さんと別れ、ここから鴨の巣一里塚、切られヶ洞、秋葉坂、など如何にも林の中の道といった地道を歩き、小一時間ほどで「細久手」宿に着いた。目指す旅館「大黒屋」は宿場の西の端近くにあった。今回は中山道を歩き出して初めての泊まり。細久手宿の「大黒屋」旅館は中山道を歩く人の殆どはその名前を知っているようだ。「大黒屋宿泊ですね」と会った人のほとんどの人は言う。夕飯の膳に出た「アマゴの塩焼き」が特別に美味しかった。50歳を少し越えた年齢ぐらいに見える主人と、まだ50歳未満に見える奥様、それにご主人の母親で大正12年生まれのおばあちゃん「酒井房子」さん。この人の名前は何冊かの文献で見たことがある。古いつくりの建物、奥の階段は90度かと思えるほど急だ。

2階の私の寝室に当てられた部屋の床飾りが、大木の根っこで作られた鎧を着た武将のオブジェであったが、寝ている私を頭の上から睨みつけているようだったので、寝床から起き上がってそっと武将の向きを変えさせてもらった。

 3月31日(木)
《翌日》7時ごろ目がさめた。何故か夕べは一回も目を覚ますことなくトイレも行かず、ぐっすり熟睡した。やはりこの辺りは、わが家よりも湿気が少なく温度も低いようだ。朝食は山菜中心の軽いもの。お昼のお弁当も大きなおにぎり2個が用意されてあった。
ご夫婦と記念撮影。房子おばあさんの見送りを受けて第2日目の峠越えに向って元気良くスタートした。
宿場は比較的長い登り坂だった。そして村を抜けると林の中の道が待っていた。二差路の分かれ道の真ん中に立て看板「伊藤洋蘭園」。迷ったが不安を持ったまま左への道を選んだ。少し歩いたところでどうやらこの道はやはり間違っていると考え、引き返したところで折り良く見かけた庭作業中の男性に尋ねた。どちらの道も同じ所に行くとのことでその男性はこの道を薦められた。
舗装道路が地道に変わるあたりからいよいよ登り600メートルの琵琶峠だ。熊脅しのためにリュックに取り付けた鈴がリズムの狂ったマーチで気を逸らしてくれる。この石畳の坂は、石の大きさと形状が複雑で歩き難いことこの上ない。

驚かせないで

この日は「琵琶峠」と「十三峠」という二つの峠越え。中でも「十三峠」は「十三峠におまけが7つ」と言われる中山道の難所の一つ。この日は9時間かかったが、結果的に判ったことは十三峠は西から東への旅人には上りより下りが多いということ。こちら側からは少し楽だ。道が二手に分かれており、野道から山道に入ろうとする辺りで、繋がれていた馬の呼ぶいななきに振り返ると、馬舎から一頭首を出してこちらを見ている。確かに彼は我々に声をかけた。
途中ゴルフ場(中山道カントリークラブ)敷地傍の道を横切った時ロストボールを一個拾った。
我々にとっては大変珍しい石畳の坂道を苦労して登り、琵琶峠の頂上で記念写真。

琵琶峠を下りきると村落に入る。大湫(オオクテ)宿だ。この辺りの家々はすべて犬を飼っている様だ。多分あらい熊や、キツネ、狸など害獣に対する備えだろう。この辺りから30分ほど歩けばいよいよ十三峠に差し掛かる。「中山道2つ岩」「大湫オオクテ」の宿の1300年の大杉を越えた神社の前の空き地で昼食。昼食の途中で道を歩く東からの一人旅氏に会う。「十三峠はきついですよ」と言われたが、あとでわかったことは西から歩く人には下りが多いので楽だということだった。
峠の入り口に十三峠の小さな石の標柱。峠への途中数軒の家並みの集落に入る。そこを過ぎるといよいよ本格的な峠、本格的な坂道だ。
いくつもの「立場(たてば)」いくつかの「一里塚」、いくつもの「馬頭さん」を過ぎて、登りは休みながら進む。「三城峠」「みつじ坂」、「高札場」と次々に出てくる看板を過ぎる。と、「深萱立場」の看板を見た。「もし大井宿まで行くのが無理だと判断した時は「深萱立場」からだと駅に近いですよ。ここを外すとアクセスが無くなりますよ」と、大黒屋のご主人に聞かされていたが、もとより脇道に逃げることは頭の中にはなくそのまま先へ進む。
追分ポイントの「下街道」を過ぎ「西行公園」に出た。ここから見る「恵那山」は特別印象的だった。芭蕉句碑「西行のわらじもかかれ松の露」を見ると、坂は下りになり「大井の宿」はもう目の前だった。


2011年8月29日月曜日

中山道第15日目「美濃太田~伏見~御嵩」23・3・1


駅前通りの蟹のオブジェ


中山道第15日目「美濃大田~伏見~御嵩」  2331(火)
今日は終日雨だった。
      所要時間 4時間40分 歩数 23,728歩

JR太田線「美濃太田駅」で降りる。駅前の感じは岐阜駅に似ていると思った。地方都市でよく見る比較的広い通りの駅前商店街には「蟹」などのオブジェが道の車道側に置かれている。「中山道太田宿・右御嵩伏見宿3里。左太田脇本陣宿3丁」」の文字のはっきり書かれた看板を通り過ぎる「神明水神公園」の標識塔が建っている。

家の壁には人間の背丈より直径の大きな水車。
この家の前で記念写真。

今を去る57年前大学に入ってまだ間もない頃、岐阜出身のA君の帰省に同行して、この地方を旅行したことがある。今でもしっかりと記憶しているのは、日本ラインの船下りと、そのあとで行った「犬山城」だ。今日、日本ラインの船乗り場を橋の上から見た。同じ場所だったのかどうか定かではないが懐かしかった。小雨の中暫くたたずんで眺めていた。

さて歩を進めよう。「富士浅間神社」の前を通る。ここにこの神社。何かいわれがあるのだろうが勉強する時間が無い。「中恵土」の信号を過ぎて「中山道一里塚の跡・江戸・伏見」の石柱。 
雨は大降りにはならぬまでも間断なく降り続く。

丁度人間の背丈ほどの高さに盛り上げられた「中山道比衣一里塚跡」。「花フェスタ記念公園・東入り口」の横長看板。

また国道へ出た。この辺りの国道は21号線、このところ暫くは21号線と付かず離れず歩いている。






「木曽の桟 太田の渡し 碓氷峠がなくば良い」
広重描く太田の渡しは中山道の三つの難所の内のひとつであった。

雨のしぶきで汚れてしまったのだろうか「みたけの森3k」と書かれた交差点に出た。「鬼の首塚遺跡」「関太郎首塚」と書かれている。「鬼の首塚(天神塚)町重文」というタイトルの大きな看板にそのいわれが丁寧に書かれていた。ここまで来ればもう「御嵩駅」は目の前だった。


今日は終日雨であったので休憩もほとんどせず、余り立ち止まる事もなく、ただ淡々と歩いた一日だった。