中山道第18日目
「中津川~落合~馬篭」「馬篭~妻籠~三留野」
(23・5・15~16日一泊)
(23・5・15~16日一泊)
道に覆いかぶさる枝垂れ桜 |
5月15日(日)「中津川~落合~馬篭」
所要時間 5時間10分 歩数 17,3537歩恵那山とともに歩く |
当初は13,14日の予定であったが雨と台風1号の予測で2日日程をずらした。お蔭でこの2日間は快晴。夏日を思わせる暑い日になった。
新幹線「ひかり」とワイドビュー「しなの」を乗り継いで中津川駅には午前10:48着。
駅前の商店街を南へ300メートルほど歩いて左折。ここが中山道だ。
この地方、駅前通はどこともによく似た景色、しかしここは少しだけ道幅が広い。
左折して前方を見るとインターネット氏も言っていた通りいきなり上り坂が見える。その坂の名前は「茶屋坂」となっていた。今日の8キロはほとんど上り一辺倒と覚悟はしていた。
半(ハザマ)半兵衛元矩の顕彰碑を過ぎ坂を上りきると芭蕉句碑があった。「山路来て 何や羅遊かし 寿み連草」。誰もがよく知っている句だ。細い山道は石道であったがここはまだ落合の石畳ではない。「尾州白木改番所跡」尾張藩の木材搬出取締りの番所だったようだ。歴史国道中山道の石碑、常夜灯を過ぎると巨大な枝垂れ桜が道を覆っていた。時期外れだったのが残念。小さな村に入り「与坂立場跡」の石製の標識、村を外れると恵那山が雄大な姿を現わす。藤棚に咲く藤の花、「落合五郎兼行之城跡」という大きな石柱。この人は木曽義仲の四天王といわれた家臣の一人であったようだ。城跡もあった。
30歳代ぐらいの若夫婦に出会う。中山道歩きではなく一定区間の散歩らしい。
国道19号線なのか国道を跨ぐ橋を通る。そのあと「落合助け合い大釜」から「落合宿」に入る。この宿も文化元年と12年に大火に会ったと掲示板に説明されていた。
落合宿本陣跡には「明治天皇落合御小休所」の石柱脇本陣跡は現在人が住んでおられる様子。
「常夜灯」「高札場跡」を過ぎて程なくお待ちかねの石畳。入り口にはゲートが作られていた。「石畳を経て馬篭へ至る」。落合川にかかる「下桁橋」からちょっとした滝が望める。写真撮影。「医王寺の枝垂桜」「TBS連続ドラマ浅見家の悲劇」の立て看板「新茶屋の一里塚」を過ぎると、あった!「是より北、木曽路」の大きな石。昔はここが信濃路と木曽路の境」今は馬篭が岐阜県に編入されて実際の県境はもう少し先になっている。「信濃、美濃国境」の石柱も見える。民宿梅の家。「島崎正樹翁記念碑」(島崎藤村の父君)。「石屋坂」を上りきると「馬篭の宿」は目前だ。
「馬篭宿340m」の看板から。もう直ぐだ。しかし、今まで長い上り坂を歩いて来て追い討ちと最後の叱咤激励を促すかのように、宿の入り口へは短いが急峻な上り坂だ。
やっと馬篭宿へ着く。8キロを何時間かかったかな。
目指す今夜の宿泊所「岩茸旅館」は島崎藤村記念館の右隣にあった。荷物だけ置いて直ぐ宿場見物に宿の前の坂を登って行く。お土産やさんに南部鉄の風鈴(1200円)が置いてあったので購入。若く見えるおばあさんがサービスにと小さなキーホルダーをくれる。30分以上費やして宿に帰る。 初日は終了。
5月16日(月)「馬篭~妻籠~三留野」
所要時間 7時間16分 歩数 19,954歩
今日も快晴。朝食の後9時に宿を経つ。少し坂を下った所にある「郵便局」に行って千円貯金。さあ第2日目のスタートだ。また少し昨日の続きのような坂が続く。村から少し坂を上ったところに恵那山が見える絶好のビュウポイントがあった。見事な風景が目の前に広がる。雄大な恵那山をバックにして記念写真。
車道から「右中山道」の標示に従って右の小道に入る。いかにも中山道といった細い感じのいい道だ。
「梨子の木坂」の石碑の後方に、熊の絵が書いてあってその下に「熊出没注意」の文字。持参の鈴をリュックに結ぶ。この辺り石畳の上り坂。少し入った所で60歳代?の一組の夫婦者に出会う。小休止した上り坂の左側に「十返舎一九の歌碑」(薄皮をむきし女と見えねども栗のこわ飯ここの名物)と読める。少し違うかな?馬篭峠をいっきに登りきる。頂上に来ると長野県と岐阜県の県境の表示板がある。馬篭峠頂上「標高801メートル」とある。
ここで一日一本のバスから降りてきた昭和5年生まれの老人に会った。ここまでバスで来て、妻籠への下り道だけ歩くのだそうだ。手には孫から預かったスキー用のストックを持っている。熊と戦うためですか?
さて、嬉しいのはここからは下り一辺倒だということだ。途中「いちこくお休み処」という建物前には巨大な枝垂れ桜。前後して歩いている8人組の男女グループをここで抜きさる。
「立場茶屋」の看板を見て「馬篭宿4,4km・妻籠宿3,9km」の標示看板。あと1時間余りの道のりだ。
「男滝・女滝」にやって来た。8人組のメンバーのリーダーは女性。「彼女はお金儲けも上手いんです」と、しんがりを歩いている男性の皮肉っぽい話。
道際の「棚田」に張られた水が美しい。「大妻籠」というところにやってきた。石碑には「中山道大妻籠右旧道・左志ん道」と書かれている。ここまで来ると妻籠宿へはあと1キロ足らず。
馬篭宿への入り口は急な昇りであったが、ここ妻籠宿はいつの間にやら宿場に入っていたという感じ。
「湯屋」というお店で、ざるそばと五平餅の昼食を摂る。「郵便局」を見つけたので例の千円貯金。この宿へは何十年前に2度ほど来ている。全体の印象としては余り変わった所がないように私には見えた。しかし、お店の人に聞いたのは「3月11日以降お客さんがめっぽう減った。とくに観光バスが入ってこなくなった」ということ。湯屋をでて暫くこの宿を散策。「妻籠宿本陣」「歴史資料館」「脇本陣奥谷」「明治天皇御休所」「県史跡妻籠城祉」「上久保の一里塚」は「街道の両側に築造され町内には4ヶ所あったが現在原形をとどめているのはここだけである」と説明されている。
何故ここにD51が? |
三留野宿に近いあたりで機関車D51が野ざらしで道の横に展示されていた。山の中を歩いてきた人間には目の前に環境に似つかわしくないものが現れては少し度肝を抜かれる。
しかし三留野宿の最寄り駅である南木曽(なぎそ)駅はもう直ぐだ。
南木曽駅は「三留野宿」の最寄り駅である。
広重の絵の中では「三渡野」と書かれている。
広重描く三留野宿 |
三渡野から野尻の間は険しい道であったという。が、広重はあえてのどかな田園風景を選んで描いた。
農家一家の待ちかねた春の到来を喜ぶ様が描かれている。
広重 妻籠宿 |
絵の描かれた場所は馬篭峠とも妻籠の南にある妻籠城跡近くの峠だとも言われているが定かではない。