2011年8月24日水曜日

中山道第8 「鳥居本~番場~醒ヶ井」22924() 


所要時間(グロス)時間不詳  分 歩数 不詳   歩

今日もまた近江鉄道で「鳥居本駅」に到着し、直ぐ中山道に入る。

この辺りは駅と街道が近く隣り合っている。駅近くの街道際に大きなのぼり「鳥居本宿場まつり・鳥居本お宝発見隊」と赤字に白抜き文字で書かれていた。家型の木製看板「合羽所木綿屋」「赤玉神教丸有川家」この赤玉有川家は万治元年(1658年)創業で、今もその当時のままの製法で製薬しているとのこと。

この有川家の建つ同じ通りで小学校の絵画の時間らしく生徒さんたちが思い思いの場所で、思い思いの姿で写生していた。

覗き込んでも厭な顔一つしないで、みんなもくもくと作業している。最近では珍しくなった赤い郵便ポストの上に跨って描いている男子生徒(上、写真)。こののんびりした風景は都会派の人間には羨ましい。

この宿場の看板はすべて家型の立派な木製に統一されているようだ。「鳥居本宿」の看板も同型。
「鳥居本は江戸から数えて第63番目に当たる旧宿場町です」と書かれていた。

「旅しぐれ中山道松並木」の看板を見て通る。「またおいでやす」の3本の石碑。続いて「中仙道」の標示石碑。

 宿場を抜けて街道は少し山道になる。坂を上っていくと「摺り針峠・望湖堂跡」に出た。。望湖堂とは江戸時代ここにあった茶屋のことだという。この絶景の地で「するはり餅」を食べたと言う。建物は本陣構えで、寛政7年頃は大いに繁盛していたらしい。下の広重の絵は数ある広重の街道を描いた絵の中で現在の地形に大変近いように私は思う。私の立っていた位置で広重はこの絵を描いたのではないかと思えた。鮮明ではないが私もまた琵琶湖を望んでいた。


 どんどん先を急ぐ。広く見通しの良い田舎道といった場所に出た。「中仙道番場」と書かれた石碑。ここでお昼をとることにした。約40分の休憩。
 西に向って行く二人連れを見かけたが少し道から入り組んだ所にいたので挨拶できなかった。
 
 宿場の一角に石碑あり。「中仙道西番場・古代東山道 江州馬場駅」と書かれている。「番場」ではなく「馬場」と書いてあった。
「瞼の母・番場忠太郎地蔵尊」の背の高い木製の碑。「南北朝の古戦場」(蓮華寺)と同じ碑のもう一面側に書いてある。
もう少し行くと石碑「明治天皇番場御小休所」。中山道を歩いているといたるところに「和の宮様お休み処」の石碑に出会うのは、ここが和宮の500キロのバージンロードだったことで不思議ではないが、「明治天皇の御休処」に類した表示も結構多い。明治天皇は積極的に外へ出て民のかまどをその眼で確かめられたのであろうか。

「中仙道番場宿本陣跡」の石柱を見てこの宿ともお別れ、一途に醒井宿へ向って歩みを進める。

 一里塚を過ぎ「樋口」の信号を経て、「湖北サイクルロード」と書かれた道端の表示を通り過ぎる。何かで読んだ「中仙道六軒茶屋」の前に来た。入り口が道路のレベルより下にあって入り難い。
鳥居本 広重鳥居本と番場の間にある「摺針峠」この絵の構図は
現在に近い。画面左の茶屋は「望湖堂」で現存している。

 程なくすると「中仙道醒ヶ井」の石碑。直ぐ郵便局があったので1,000円貯金をしようと思って近づいて行ったが、これが何と元郵便局で今資料館。

醒ヶ井に来たので、予ねて噂に聞いていた「梅花藻」を見ようと、宿場内の「地蔵川」に足を向ける。10月だというのにまだ梅花藻を見ることが出来た。「西行水」も見物して醒ヶ井駅に向う。

番場の宿 広重
番場といえば我々はすぐ長谷川伸の小説「瞼の母」の主人公
番場bの忠太郎に結びつく。忠太郎は架空の人物であるが
近くにはお墓もあるという。


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