2011年12月24日土曜日

中山道第23日目望月~追分231208

中山道第23日目 「望月~八幡~塩名田~岩村田~小田井~追分」
23128()10() 
     
       初日 望月「青木荘」に宿泊
  
        2日目 望月~八幡~塩名田~岩村田 7時間00分 歩数21,644
        3,6km 2,9km  5,1km   11,6km
     
            3日目 岩村田~小田井~追分    4時間30分 歩数20,062
        4,6km  5,9km    10,5km

 

初日12月8日(木)

今回のスタートは前回108日、私の右足のトラブルのため断念せざるを得なかった望月宿からのスタートとなった。
今回の歩行は二日間で22,1kmと比較的短い距離であったが、話題は少なくなかった。

まず出会いがあった。

篠ノ井から小諸に行く快速電車の中でアメリカ人の若い女性と向い合わせの座席になった。「May I sit down here?」「Of course Please」。
小諸駅の手前上田駅でそのアメリカ女性が降りるまで、写真を撮り楽しい会話が出来た。
アメリカから二週間前に来て直ぐ英語学校で教えているとのこと。教材もカバンから出して見せてくれた。また自分自身も日本語を学び始めたと言って日本語の教材を出して見せてくれたので,ここから我々の日本語指導が始った。たちまちTeacherStudentになった。

二つ目の出会いは今回の行程の終わり近くだった。後述するように小田井宿から追分宿への中山道を間違って歩いてしまった。途中で気がついた時にはもう後には戻れない所まで来ていたのでそのまま歩き、林の中の別荘らしき建物の庭でガーデニングをされていたご夫婦に、信濃追分駅までの道筋を尋ねた。中山道だと思った道がそうでなかったこと。そして駅の位置がわからなくなってしまったこと。丁寧に教えていただいた道を駅近くまで歩いて行った時、後方から車が我々を追いかけてきて真横に止まった。振り向くと先ほど道を教えて頂いた「大海さん(仮名)」だった。私達が歩けなかった中山道を、自分の車で案内して下さるということだった。折角遠く京都から来たのに街道筋にあるビュウポイントを見過ごしてしまうのは残念だろうというご配慮からだった。「堀辰雄記念館」「分去の碑」などなど、中山道を歩く人なら当然必見のポイントを案内して頂いた。見知らぬ地での親切が嬉しかった。

道を三度間違った。

一度目と二度目は正しい道に軌道修正できたが、三度目は(前述)遂に正道へ戻るにはあまりにも間違った道を歩き過ぎてしまっていた。
一度目は望月宿から朝スタートして中山道への標識を見落として200mほど通り過ごしてしまってから、おかしいなと気付き、引き返して正道に戻った。
二度目は三日目の朝、宿泊した佐久平駅前のホテル「佐久平プラザ21」のフロントで、「中山道はどちらですか」と尋ね、結果的には昨日このホテルに辿り着いた時に歩いた同じ道をダブって歩く結果になり、1時間ほど時間をロスしてしまった。「中山道はどちらですか?」という尋ね方が間違いの元だった。中山道は点ではなく線である。中山道という道のどの点へ行くのかを尋ねなければならなかったのだ。
三度目は決定的なミスであった。三日目、小田井宿から追分宿へ行く道をいつの間にか県道137号線の車の往来の激しい道路を歩いていた。先程から中山道の道筋でよく見かける標識を目にしていないと感じ、畑から帰られる途中の農夫に尋ねて、我々の間違いが取り返しの付かないところまで来ていることを知った。今更正道に戻れないのでこのまま進むことにした。

もう一つのハップニング
「塩名田」の交差点を渡ろうとしたときの事だった。勢いよく走ってきた消防車から大きな音がして何か物が落ちてきた。消火用ホースの1m長の金属製のノズルであった。大声で合図したが車は行ってしまった。暫くして50歳ぐらいのご婦人に会ったので、状況を話して近くの消防署に電話しておいてほしいと頼んでおいた。

第二日目129日(金)
 

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瓜生坂への上り口
  
今日は快晴。風は少し冷たい。
いろいろなハップニングもあったが、今回の中山道第二日目は、先日も宿泊した望月宿の旅館「青木荘」からスタートした。
朝目覚め、窓から外を見ると林や道路にはうっすら雪が積もっていた。今冬初めて眼にする雪だった。そして前述のミスを犯した後、旧中山道を歩き始めた。
今日の最終目的地は約12km先の岩村田宿である。しかし先ず目指すは八幡宿。自転車屋の角を曲がり暫く宿場の中を歩いたがいきなり瓜生坂の昇り坂が待っていた。まだ足のウオーミングアップが出来ていない朝の時間なので、この急坂は少しきつかった。しかし坂道はそう長くなかったのでほっとした。「瓜生坂の百万辺念仏塔」の古い看板が雪景色をバックにくっきり浮き上がって見えた。
「望月城跡」と書かれた標識の横に望月宿の石灯篭。「遺言道祖神」その説明立看板を過ぎ視界が突然開けた。目前に現れた浅間山。雪を冠ったその雄大さに圧倒された。ここから今回の中山道行は最終目的地まで、冠雪した浅間山と共に歩いた。眼をやる度に疲れを忘れさせてくれた。
望月宿へ2,5km、八幡宿へ0,8kmの表示を過ぎ暫く行くと塩名田3,2kmの表示が表われた。
八幡宿の「中山道八幡宿本陣跡」の標識の後ろの建物は、門だけが残っているのだろうか。
つぎのビュウポイントは「八幡神社」、「高良社」。高良社とは周辺に定着した朝鮮からの渡来人の社で高麗社の意。現在国の重要文化財に指定されている。暫く先に石の門柱だけがあった。高さ2mほどの石柱の左の文字は「常泉寺」、右側には「八幡山」と書かれている。
八幡宿の村落を通り抜けると左前方に再び雄大な浅間山が現れた。この山は何度見ても見飽きない。画家がこんな山並を目の前にすれば、何はさておいても絵筆を取りたくなるだろう。絵の心得の無い私にも暫く眺めていたい衝動に駆られる。明るく開けた田園地帯を抜けると塩名田の宿に入った。直ぐ左手に「塩名田宿本陣問屋跡」の標柱。その後ろに建つ建物は勿論本陣そのものではないようだ。宿場の中の塩名田の交差点を渡ろうとしたとき前述したハップニングが起こった。消防車がノズルを落としていったのだ。あのご婦人は消防署へ連絡されただろうか。
「重要文化財駒形神社」を過ぎる。「この地は古くから信濃牧の地と呼ばれる馬の産地であり、本殿には馬に乗った男女二体の神像が祀られている所からそれらに関係した神社だったと思われる」と説明書には書かれている。
塩名田宿を通り抜ける。道端の立て看板には「追分」の文字が現れ始めた。その前に岩村田の宿がある。見たいと思っていた「相生の松」をうっかり見落としたことに気がついて引き返す事にした。現在の松は3代目だという。
西宮神社を通り過ぎると「岩村田宿」の表示が交差点際に建っていた。やっと本日の終着である岩村田宿を通り抜け、今夜の宿泊所「佐久平プラザ21」を目指す。

第三日目1210日(土)
今朝は昨日より1時間早くホテルを出た。スタートは810分。今日は何としても信濃追分駅1430発の電車に乗りたい。これを外すと帰宅予定はカレンダーの日付が変わってからになるのだ。ところが冒頭に書いたように中山道に遠回りして入ったことになり、きっちり1時間ロスしてしまった。

「相生の松」

小田井宿脇本陣跡












県道137号をに沿って残雪の舗装道路が続く。車の通行も決して少なくない。道路わきに立つ標識「小田井宿を経て追分7,4km・中部北陸自然歩道」を横目に見て先に進む。「市文化財旧跡鵜縄沢端一里塚」には「この一里塚は慶長年間中山道開通の当初に設置されたものである」と書かれている。道端の舗装されていない土の部分には雪が残り、左前方にはすっかり冠雪した浅間山が疲れを忘れさせてくれる。暫く行くと二股の分かれ道に来た。右側の道に入る。暫く歩くと「追分6,6km」の標識。村の半鐘台(火の見櫓)が浅間山の頂上から上に突き出しているように重なって見える。

御代田町に入った。

「中山道小田井宿跡」の縦長の標識。小田井宿の「脇本陣跡」。この辺り標柱も周りの樹木も頭に雪帽子をすっぽりとかぶっている。続いて「中山道小田井宿本陣跡(安川家住宅」。道の左側に新しい「休憩所」が作られていたが先ほど休んだばかりなので残念だがパス。「中山道小田井宿」と書かれた木彫りの柱の上に梟が止まっている。これも木彫り。村はずれに来ると再びみたび雪をいただいた浅間山が眼前に迫る。山の姿は現われるたびに大きくなっている。ここで標識は「追分5,0km」。「追分へ4.0km」の標識を過ぎた辺りに「御代田町役場・御代田駅・国道18号線」の背の高い鉄製の交通標識。後で述べるがどうもここを左へ標識に沿って御代田駅の方へ行くのが正解であったのかも-。

「龍神の杜」という公園があったので10分休憩を取る。「ミネビア株式会社」の門前を過ぎる。「雪窓湖」の看板が交通標識のように立っている。見晴らしのいい場所に道が開けるとまたまた浅間山に会う。「会うたびに大物になる浅間山」「浅間山八景第七番草越」の縦標識。県道137号は続く。
どうもこの辺りで道を間違い始めていたのかもしれない。いずれにしてもこの日何処からか中山道を外れた道を辿っていたのだ。なんとなくおかしいと感じ、野良仕事帰りの人に道を確認した時には既に取り返しのつかないところまで歩いてきてしまっていた。

林の中の庭でガーデニングをされていたご夫婦に、道を間違えたことを話し「信濃追分駅」への道を尋ねた。目的地までもう20分ほどの地点にまで来ていた。
駅舎が見えて来たとき、後ろから走ってきた車が止まった。先ほど道を尋ねた大海さんであった。(その後は前述の通り)。


日本の名山を眺めながら歩いて来たが、冠雪した浅間山は強く心に残った

小田井宿から追分宿までの中山道は見所が多いことがわかったので、次回はぜひ御代田駅で下車して、今回歩けなかった小田井、追分間の中山道を歩きたいと思っている


浅間山
 



八幡宿 歌川広重
中沢川に架かる板橋の上で子どもと旅人がすれ違う。
画面右手奥にはキセルをくわえながら帰る農夫、
幼子を背負っている女性
  

塩名田宿 歌川広重
塩名田宿の西の外れ千曲川渡し場?


岩村田宿 渓斎英泉
このシリーズの風景画としては大変異色。
旅人が喧嘩している。犬が吠えている。

小田井宿 歌川広重
小田井宿の西「金井ヶ原」を描いたと言われている。
秋の夕暮れの寂しさが描かれている。
 
渓斎英泉 追分宿
中山道と北国街道の別れ道になる追分。後ろの山は勿論
浅間山であるが実際の山と少し違って見える。


望月宿 歌川広重
瓜生坂は満月の夜だった。
 





2011年10月19日水曜日

中山道塩尻~望月23・10・05~8

 中山道第22日目 「塩尻~下諏訪~和田~長久保~芦田~望月」
23105()8() 所要時間 初日 塩尻~下諏訪 6時間55 歩数31,882
       2日目 下諏訪~和田 10時間40分 歩数47,860
   3日目 和田~長久保~芦田~望月 8時間40 歩数24,476


初日10月5日(水)
34日の日程は中山道を歩き始めて今回が初めて。宿場と最寄鉄道駅とのアクセスの関係でどうしてもこの行程にならざるを得なかった。
初日塩尻峠、二日目和田峠、三日目笠取峠。今回は大小合わせて3つの峠を越えることになった。しかし厳しいとは聞いていたが中でも和田峠は、悪条件が重なったことにもよるが予想していたよりきつかった。山道の厳しさもさることながら、最後の道程になった真っ暗で、歩道の無い(白線だけ)国道142号線が恐怖の2時間であった。物凄いスピードで走る大型トラックが来るたびに、ガードレールの外へ身を寄せ、背中のリュックサックを引っかけられないように注意しながら真っ黒な怪物の過ぎ去るのを待つ。やり過ごしたら足早に何歩か歩いてまたトラックを避ける。私ごとで言えば足の指の付け根が、我慢しきれないぐらいに痛む。テープで補強したいのだが治療する場所がない。

足のトラブルの原因は、履き慣れたキャラバンシューズが駄目になり、新しいシューズを履いて行ったがこの靴が合わなかったことによる。両足に靴擦れが起こり、痛みを我慢して無理をしたことから傷が広がって親指付け根が裂けて膿をもち大事に至ってしまった。

また初日は終日雨に祟られた。傘をさしカメラを操作するのは大変わずらわしい作業である。

どうしても行動そのものも制約を受けざるを得ない。

さて早朝に自宅を出発して塩尻駅に着いたのは11時前。駅前をスタートしたのは1120分。
降り出していた小雨が30分もしないうちに本格的な雨になっていた。駅構内に先日帰途に立ち寄った     蕎麦屋「桔梗」がある。駅前の観光センターに入ってできるだけ多くの情報を得る。
前にも書いたが駅前の通りは何処も良く似た佇まいである。

中山道のルートに入り先ず最初のチェックポイントの大門神社の前を通る。塩尻橋、一瞬、犬小屋と見間違えた大小屋の信号、EPSONの工場を過ぎる。この通りは国道153号線らしい。程なくして塩尻宿の脇本陣跡。続いて本陣跡、塩尻中町郵便局を見つけたので例によって街道通過記念貯金千円。この辺りでは雨は本格的に降っていた。ビデを撮影、スチル写真撮影、傘をさしながらのわずらわしい作業だ。
上問屋跡、高札場跡、口止め番所跡の石碑、木曽義仲ゆかりの永福寺、高札場看板、首塚胴塚の道標を過ぎるといよいよ塩尻峠の登り坂に入る。
雨が本格的に降る中、向こうから歩いてくる4人の男性に会った。日本橋から歩いてきた中山道ウオーカーの皆さんだった。暫く立ち止まって互いにこれから歩く未知の街道について情報交換。和田峠はこの雨では歩行が危ぶまれるとの話。明日までにこの雨がやんでくれることを祈るのみ。
塩尻宿 渓斎英泉

下諏訪を出て塩尻峠をを登っていくと眼下に諏訪湖が見える。
私はこれほど鮮やかに見ることは出来なかったが
栄泉の時代には見えたのであろう。
左奥に見えるお城は「高島城」 


舗装された登り坂を上りきった辺りに道路横断用のトンネル。潜り抜けたらまた先ほどの道の続き。
登りは続く。
「高ポッチ高原」の看板。れんげとつつじの名所らしい。この辺りへ来ると雨の中、もやがかかって看板の文字も判読し辛い。皇女和宮も休息されたという茶屋本陣跡に来た。看板の横に立つ建物の中に人の影が見える。素朴な『中山道』の立て札が適当な間隔で道路際に立てられているので大変心強い。この辺りの地名はどうやら「今井」というようだ。明治天皇御小休所跡の石碑を横目に見て先に進む。「おおはし」という小さな橋を渡る。『出早口』の信号、「長地中町」の信号を過ぎる。この辺りではすれ違うすべての車がヘッドライトを点けている。周囲はもやっているのだ。「中山道下諏訪宿」の提灯には既に灯が灯されている。雨に悩まされたがどうやら下諏訪宿に辿り着いたようだ。目的の今夜の宿泊所「山王閣」は街中の坂を上りきった所にあった。到着は午後615分。すっかり日が落ちていた。

二日目106()
知人に紹介された山王閣はコストパフォマンス的に言えば大変嬉しい宿であった。
6時ごろには降っていた雨が、朝食の8時前にはすっかりやみ、歩き出した9時過ぎにはからりと晴れ上がっていた。これはラッキー、街道随一の難所和田峠が雨では少し危険と昨日聞いたので心配していた。
1階ロビーから晴れ上がった空のもと諏訪湖が美しい姿を見せている。 
ここ下諏訪はお江戸日本橋からスタート
する甲州街道の起点でもある。


和田峠に詳しいという山王閣の吉沢さんに頂上付近の詳しいルートを教えてもらった後、さあ出発。
この下諏訪宿には、諏訪神社春宮や秋宮初め、オルゴール記念館ほか行きたいところ見たいものが多くあるのだが、今日はそんな余裕がないのが残念。ただ、殆どの中山道記に紹介されている「元治の石仏」だけは見たい。街道沿いにあると思い込んでいた石仏は、諏訪大社春宮の境内にあった。岡本太郎さんがこよなく愛したと言われるこの石仏は私が想像していたよりも大きかった。
毎寅年と申年に6年ごと開催される御柱祭りの開催場所も見たが、御柱を転がし落す木落坂の傾斜の急なのに大変驚いた。何処からか現れた70歳位の地元のおばさんが、昨年は若者が2人死んだとか、この祭りのことについて手ぶり身振りを交え詳細に話してくれた。
さて表示看板によれば和田峠まではまだ9,6kmある。もう11時を過ぎている。心は焦る。足は痛い。
国道の「御柱木落し坂」と書かれた看板の際から山の中の登りに入る。
「和田峠8,8km」の看板。先はまだまだだ。「ふかっさわ橋」という名の小さな橋を渡り、「樋橋古戦場跡」の石碑をみて地下道を潜り抜ける。「標高1100m」の青い看板。頂上は1600mと聞いていたのでここから500mの上りなのか。流石にここからは砂利道というより尖った石の道、足の踏み場もないような険しい道。昨日出逢った4人組のグループが言っていた「雨では歩行が困難」とはこの辺りのことだとわかる。場所によっては50センチほどの石道の右側は転げ落ちると30mは転落しそうな細い場所だ。それでもこんな坂道の途中に一里塚があった。
「和宮一行はこの石坂をどうして歩いたのだろう」そんな疑問がふと頭の隅をよぎる。そんな折、目の前に大きな警告看板が現れた。

大きな尖った石。しかも右側は山の急斜面。
慎重に進む。

『注意!熊の出没情報。5月上旬に熊の出没が目撃されました。十分に注意してください』

熊が出てきたら喰われるしかないなあ、という諦めの気持ち。

覗き込んでみると45度もあろうかという
急坂。しかもその先には車の通る舗装
された道路。こんなところから落すの…
 そしてやっと最初のチェックポイント「西餅屋茶屋跡」(石碑)までやってきた。『西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」であった』と書かれた説明立看板が立っている。悪路はまだまだ続く。おおきな倒木が道なき道を真一文字に塞いでいる。リュックが引っ掛かって後ろ方向に引き戻される。やっと『和田峠0.8km』の標識まで登ってきた。片方の矢印は「諏訪大社下社(秋宮)まで11,1km」とある。11,1kmを歩いてきたのだ。しかしこれだけでもまだ峠の頂上には来ていない。頂上近くになんともいえぬ美しい杉木立を見た。思わずカメラを向ける。「長和町」の看板。そして第2のチェックポイント「東餅屋」まで来た。東餅屋は今閉店した所であった。「遅いじゃないですか」とお店の主人らしい人が声をかけてきた。時間に追われているこちらとしてはここで立ち止まれない。「お餅ありますよ」というセールストークが背中に聞こえてきた。申し訳ないがそのまま歩みを続ける。代わりに説明看板だけはしっかりカメラに収めてきた。
「この東餅屋では五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間より、一軒に一人扶持を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にも当たっていた」という。
元治の石仏
大きくて不思議なこの石仏を岡本太郎さんがこよなく
愛したと記されている。

「つるべ落としの秋の日」と言うが、まさにその通り。この東餅屋を過ぎるのを待っていたかのように急激に日が沈み始めた。
ここからはもうカメラも写せない。ただひたすらに坂道を下るだけである。上りよりは楽であるが曲がりくねる坂道は暗くて細かい突起物などは確認できない。
しかしこの時はまだ、この先の長さと国道の恐怖は予測できていなかった。結果的に知ることになった距離よりもずっと短い距離を考えていた。痛む足が痺れたのかこのとき暫く痛さを感じなくなった。これを機にスピードアップして坂道を必死で降りた。しかしこの無理が後で大きく堪えることになるのはこの時は知る由もなかった。坂を下りきって国道142号線に出た。しかし辺りは真っ暗。この国道を右に行くべきか左なのか全くわからない。看板も暗くて見えない。
已む無く、携帯電話で今夜の宿である「本亭」に電話したが、第一自分たちの居る場所が定かではないのだから道の聞き様もない。答える方も何と言っていいか困られたことだろう。
結果的にはいい判断になったのだが、峠から降りてきたのだからとにかく上りより下りを選んで歩き出した。この時目的地までまだ2時間もあるなどとはとても考えていなかった。少なくとも1時間ぐらいの距離にいるのだろうと思っていた。
ここから恐怖の国道歩きが始まった。
真っ暗な国道142号線。
下諏訪宿 歌川広重

和田峠を控え、温泉地でもあったここ下諏訪は
当時は大変な賑わいを見せていたようだ。
どんぶり飯をかき込む旅人、左方には湯に使って
鼻歌でも歌っている旅人。
背を向けているのは広重その人だという説もある.


後ろから来る車を確認するよりは、前方からの車の方が視界に入りやすいので、対向車線を歩いた。最初は歩道または歩道らしきものがあったが、途中から歩道の仕切りがなくて歩道を示す白線一本のみ。何処にでも見られる白いガードフェンスと、歩道を示す白線の間は1メートルあるかないかだ。真っ黒で巨大な怪物が次から次へと猛スピードでやってくる。そのたびにリュックを引っかけられないように背中をガードフェンスの外側に出し、背を反らせてトラックをやり過ごす。轟音をたてて走るトラックと私の体との間隔は1メートルもない。最大の難所は和田峠と聞いていたがこの国道こそ最大の難所だ
足は痛む、絆創膏を張り替えたいが時間的にも場所的にもそれどころではない。
恐怖の時間が過ぎて和田宿への信号が見えても油断は出来ない。あと100mといえども何台かのトラックをやり過ごさなければならない。信号のある交差点に来た時の安堵の気持ちは表現の仕様がない。
 和田宿 歌川広重

和田峠海抜1531m靴擦れに悩まされ足は腫れあがり
苦しかった登り10kmtp下り10km
「3月の末まで雪ありて寒し、地形はなはだ高き所なり」
遠くに見えるのは御嶽山であろうか。
宿に着いたのは午後8時少し過ぎであった。結果的には下諏訪駅から10時間40分かかったことになる。

三日目10月7日()
10kmの上り、10kmの下り、22,2kmの距離、歩数計47,860歩、携帯電話の歩数計はなんと53,300歩の第二日目の夜は流石にぐっすりねむれた。

今朝は快晴。昨日より1時間早い820分に宿を出る。ここ本亭は中山道の街道筋に建っている。ご主人と奥様に丁寧に見送られ、玄関を出て右方向に歩き出す。
「ここは脇本陣」の大きな立標識。そして直ぐ本陣の前を通る。「菩薩寺0,3km・八幡神社」などと書かれた標識を過ぎる。和田中学校、和田小学校も中山道に面し隣り合って建っている。小学校の方は建て替えたのだろうか中学校より新しくモダンになっている。村から外れるとユニークなバス停の建物、一里塚。
「若宮八幡神社本殿」、和田城主大井信定父子の墓と書いてある。珍しいものを見つけた。「ミミズの碑」。(この土地に住む人々の希望により祭られました)と説明ボードに書かれてあった。

「水明の里」と書かれた大きな石碑の場所に到着するまでは、舗装はされているが静かな田園の中の道を行く。江戸からの旅人に向け「中山道これより和田の宿」と書かれた大きな石碑。こういう表示を見るたびに思う。中山道を歩く人はすべてがすべてお江戸から京都を目指しているとは限りませんよ。せめて「中山道和田宿の出入り口」と書いてください。

「長久保」という文字が信号機についている。どうやら長久保宿に近づいているらしい。こじんまりしたバス停の建物を見つけたので小休止することにした。


笠取の松並木
 今回の3日間は大小3つの峠を歩く。3つ目の峠「笠取峠」3,3kmの表示が現れた。寛永時代より昭和まで酒造業を営んでいた「釜鳴屋」の古い建物前を歩く。脇本陣、本陣跡、静かな街道通り、人が住んでいるのだろうかという疑惑に陥る。長久保宿は静かな街だった。

長久保宿を抜け笠取り峠へ向う途中で江戸から一人で旅する男性に会ってしばらく立ち話。齢は60歳手前辺りか。このブログのことを紹介。
『笠取り峠1,7km、和田宿8,1km』の立て看板。もう8,1km歩いてきたのか。大きな笠取り峠と書かれた石碑を過ぎると「峠の茶屋」の暖簾のかかった蕎麦屋さんを見た。少し早めだがここで昼食をとることにした。てんぷら蕎麦700円。美味しかったが中味はかき揚げ蕎麦。しかしてんぷらはかき揚げであってもてんぷらには間違いない。誰が書いたのか読み取れないが色紙が数枚壁に貼られている。

お店を出たところに交通標識あり「清里65km、佐久24km」。今夏友人夫妻と行ったあの清里に近づいているという感慨が湧き上がってきた。茶屋から道は下りになる。足の痛みはいっこうに軽くならない。次なる目標と楽しみは笠取峠の「松並木」だった。「慶長七年幕府は中山道の整備に着手…現在百本余りの老松が往時を今に伝えている」と書かれている。
ここでまた江戸から一人で歩く男性に会った。説明本を片手に「和田宿で本亭に泊まる予定」と言われたので「本亭は今夜はお休みですよ。しかし電話するとどこか紹介してくれる筈ですよ」と教えてあげた。
『従是東小諸領』の大きな石碑。道祖神石碑、松並木を出るまでにもう一人江戸から歩く男性に会った。
ほどなくして芦田宿に差し掛かった。ここには「芦田宿入り口」のたて看板が立っていた。郵便局で記念貯金。「立科町役場」の表示石,仲居の信号、芦田川という小さな川、立科ゴルフ倶楽部正門、茂田井の一里塚、石割坂という表示があったがどれがその坂だったのか。茂田井村下組高札場跡を見る、今、茂田井村の真っ只中を歩いているようだ。この村は造り酒屋が多いようで大きな杉玉を門に吊るした家が軒を連ねている。
望月宿の文字があちこちに現れるようになってきた。遂に望月宿道案内の表示に出くわした。交通標識のように大きく高い位置に「これより中山道望月宿」の文字。
大伴神社、蒟蒻細萱、脇御本陣の板が家の軒先に架かっている。老舗のお店のような佇まいの商工会館を過ぎればもうここは望月宿の真っ只中だった。昨日ほどハードではなかったが今日もまた18,3kmの道のりを8時間40分かけて歩いたことになる。

目指す宿「青木荘」は宿の奥まった所、清流のそばにあった。ロケイションは最高の場所であった。

芦田宿 歌川広重

図は笠取峠を描いたとされる
この絵にも小さな茶屋が描かれているが私達の入った茶屋の
前身でもあろうか。ここからは浅間山が見えたのだろうが
私はこの茶屋の場所からは見ていない


四日目10月8日()
昨夜は痛めた足がうずいて眠れなかった。朝目が覚めてみると右足の親指付け根の甲の部分が腫れあがっていた。絆創膏のふちから血が滲み出ている。悩んだ末、相棒にも相談して今日の行程は中止することに決め、ここからバスに乗り小海線を使って帰途に向うことにした。