2012年11月24日土曜日

中山道第28日目鴻巣~浦和241116


 中山道第28日目  「鴻巣~桶川~上尾~大宮~浦和」
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1日目 鴻巣駅12:32着 鴻巣~桶川~上尾4時間50分 歩数23017
2日目       上尾~大宮~浦和 6時間35分 歩数29479歩   

    

前回に続き今回も12日の行程だ。
2年半前にスタートした中山道も今回を終われば最終回の22,8km一回を残すのみとなった。
今回の23,2kmを含め、残すは487kmだ。最終回の22,8kmは余裕を持って道中を充分楽しみながら歩きたいと思う。時間的には12月実施可能であるが、楽しみを使い急ぐのは惜しい気がするので年明けに実施したいと考えている。   

さて今回は前回のように特記事項はあまりなかった。
ただ2日目の17日は大阪も東京も雨だったのに、我々が歩く中山道には雨が全く降らなかった。中山道のお天気神は老齢の我々を哀れんで雨を他の地域に配分してくれたのだと思う。

初日1116日(金)

鴻巣駅を1240分にスタートした。
歩き出して直ぐに鴻巣郵便局があり早速1,000円貯金。

「鴻巣本陣跡」の石碑が道路脇に建っているが建物の跡形はない。熊谷から鴻巣へ入る道すがらには道路にコウノトリの石細工が施してあったが、何故かここには兎が笑っているイラスト。

 本町の信号を過ぎると「鴻巣宿」の黒い石碑。雛人形の街だけあって「雛人形町」の赤い幟が街路灯の黒いポールに下げられている。「臼井人形店」、「124日酉の市」のポスター、「ひなの里」の石碑を横目に見ながら「広田屋ひな人形」のひときわ大きな看板。2階部分のショーウインドウには「五条の弁慶」という見出しで、牛若丸と弁慶の人形が五条大橋で立ち会っているシーンが見える。また店の前には「長寿橋」の模型が置かれ、中国の古事にちなんでこの橋を渡ると長生きするという説明が読める。

北本市に入り「深井二丁目」の信号を過ぎる。
「魚孝鮮魚センター」「麩まんじゅう・やまと」の店、「星乃コーヒ」「がってん寿司」などレストラン街のような通りに続いて「村社・浅間社」があった。「奉祝天皇陛下即位20年記念植樹」の表示も見える。右北本駅の標識。我々が今歩いているのは164号線らしい。多門寺はそのまま通り過ぎる。と言うより門が閉まっているので入れる雰囲気ではない。やっと見つけた「中山道街路灯NO26北本市」の黒くて大きな石碑。中山道の標識を目にすればほっとする。「中山道北本宿」という石碑を見つけた。はて?中山道に「北本宿」というのがあったのか。私が見た書物にはこの名前の宿はなかったがー。
説明板によると、もと本宿として存在していたが鴻巣宿に吸収されたようだ。「北本宿」の表示は街道沿いで何度もお目にかかる。北本宿という市民権をアピールしているかのようだ。

しばらく行くと「北本市本宿」という信号があった。「もんじゃ焼きとお好み焼き」のお店、もんじゃ焼きを食べて見たいと思ったが時間的余裕はなかった。つづいて「北本湯楽の湯」温泉だ。お風呂好きにはここでの泊まりならぜひ浸かって見たい雰囲気の湯。

「桶川市役所入口」の信号表示に続き「中山道桶川宿」の石碑。桶川の宿に入ったのだ。
「うどん蕎麦今福屋」「50m先稲荷神社」のあと「中山道桶川宿手洗い処」の案内表示。この宿は街道歩きの人間に親切なのだろう。
『左上尾宿34丁』の石碑前で写真を一枚。桶川駅前通りを過ぎると「あった!」「武村旅館が!」。街道を東から西へ歩いている先輩から推薦されていた旅館だ。しかし予約電話を入れたら「長逗留者が居るので」駄目と断られた。いかにも中山道らしい純日本式旅館の風情。ここに泊まれなかったので今回は上尾の第一ホテルにした。私の星は二つだった。
上尾市の信号灯看板を通り過ぎればそこは夕暮れの始まりだった。「がってん寿司」を過ぎ、「彩の国平成の道標」の標識を写真に収めた時、辺りはもう薄暗くなっていた。
今夜の宿は「上尾第一ホテル」で駅には大変近い。
 

二日目1117日(土)

今日は全国的に天気が悪いという予報であるしかし朝方、天気は悪くなくむしろ晴天であった。
ホテルスタートは9時。信号灯に「上尾駅東」の看板を見て中山道に入る。明日18日はシティマラソンが行われるらしい。あちこちに看板が立っている。「シティマラソン開催中につき中山道は通行できません」迂回をお願いします」

しばらく歩いたところで念のため、家の前をほうきがけしているおばさんに「中山道はこの道でいいのですね?」と訊ねた。「違います。旧道はあっちです」。直ぐに教えられた方向に道を変えた。なるほど中山道らしき道に出た。尋ねてよかった。街道歩きの経験で必要以上に道を尋ねたほうがいいということを知っているが、まさかという思いから声をかけずに過ぎることがよくある。間違いは早めに正すのがよい。小田井宿~追分宿のように次回に正しい道をなぞりなおすこともあったのだ。

「愛宕神社」を過ぎる。またシティマラソンの看板。「大会当日走路となるため通行止めとなります」。急に小用を足したくなったので大きな商業施設のようなビルに入っていく。トイレの所在を尋ねれば「奥のボーリング場の中にあります」と言う。計らずもボーリング場というところに何十年ぶりかで入った。
横浜ゴムの配送センター、広い駐車場を備えた大型商業施設「バリュープラザ」、「コーセ化粧品埼玉支店」、「さいたま市営コミュニティセンター」、赤い鳥居があざやかな「南方神社」、「宮原中学校」、「大宮北高校」、「宮原小学校」、などを過ぎれば「加茂神社」。五穀豊穣と萬物を育てる神と説明が読める。境内で10分間休憩。
宮原駅入口の信号灯看板を過ぎる。道路標識から察するに中山道はこの辺りでは国道164号になるらしい。「家具ホームセンター・島忠」。通りに面して「かっぱ寿司」があったのでトイレを借りに入る。「大宮郵便局」「天理教埼玉教務支庁」前を過ぎる。「官幣大社氷川神社」の大きな石柱の手前にある高架下をくぐる階段の降り口に「なにかあったら『いかのおすし』」と書かれていた。これを見た当時は、この言葉が防犯標語だということが私には全くわからなかった。
官幣大社氷川神社の石碑の真正面の道端で10分間の休憩。
1235分大宮駅前に到着。交差点近くのラーメン屋に行列が出来ているのを見て、きっと美味しい店だと判断し行列に並ぶことにした。とんこつラーメンは期待通りであった。この店の向いは高島屋百貨店だった。
お腹もふくれ30分の昼食休憩もとったので、残り4,9kmの浦和宿を目指して再び勇んで歩き出した。「ニューライフカタクラ」はゴルフの練習場だろう。

ケヤキの並木道が延々と続く。道中記に2kmと書いてあったが2kmの距離よりは短いだ
ろう。この並木をdf抜けるとさいたま新都心の新しい町に出た。いかにも出来たてのまっさらの街の感じ。
「一本杉」と書かれた古く汚れた石碑が道路際にあった。「この地は、中山道界隈で一本杉の仇討ちとして語り継がれた事件のあった場所です」。水戸藩士宮本佐一朗の息子鹿太郎が、針ヶ谷村の一本杉で父の仇討ちをしたという話が、中山道界隈に語り継がれたということです。

道中記にも書かれていた浄土宗「廓信寺」に来た。時間に余裕があったので入ることにした。敷地内には幼稚園が併設されている。「厚徳幼稚園」。「秩父宮妃殿下御成お手植えの樹」は(紅梅)。昭和3255日の日付だが表示板に古さは感じない。

再び街道に戻る。さすがサッカーの町。浦和レッズの応援表示が通りのあちらこちらに見える。『町が赤く染まる日REDS戦いの日』という勇ましい看板。道端に並ぶ「レディア像」や選手の手形・足型の銅版。
常盤公園への導入路に、農婦が手に大根、足元にかぼちゃを置いた銅像が3体あった。
街角に建つ「中山道浦和宿」の石碑は優に2メートルはある。
左浦和駅、右県庁の大きな標識を過ぎれば浦和駅西口に到着。


渓斎英泉 桶川宿
農家の軒先に名産の葉煙草、農婦の手には中山道
麦、なんとものどかな秋の昼下がり。



渓斎英泉 上尾宿
私も立ち寄った賀茂神社。その隣の農家では今
稲こきの真っ最中か。




渓斎英泉 大宮宿
あの賑やかな今の大宮宿から、当時は富士山が
見えたとは…


渓斎英泉 浦和宿
当時は300軒の宿場であった。噴煙のたなびく浅間山
が望めていたとは…。季節は早春といわれている。


2012年11月22日木曜日

中山道第27日目「深谷宿から鴻巣宿」


中山道第27日目  「深谷~熊谷~鴻巣」

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1日目 深谷駅13:13着。深谷~熊谷  4時間20分 歩数25718
2日目 熊谷~鴻巣(駅着1620分)  7時間40分 歩数32312歩   

    

今回は久し振りの12日の行程だ。
深谷駅を1330分から歩き初めて初日は10,7kmであったが、宿場の位置と駅の位置を読み違えたのか随分遠い距離を歩いたような感じであった。実際万歩計の表示も25718歩、経過時間も4時間20分かかった。
これに反して2日目は16,3kmであったが、32312歩で予測していたよりも短く感じた。
特記すべきハップニングが5つほどあった、

先ず中山道を歩いて始めて富士山が遥か彼方ではあったが見えたこと。
次に朝ホテルで勘定を済ませた時、籤引きサービスがあり『当たり』くじを引いて現金千円が当たったこと。
3つ目。熊谷の宿場で80歳ぐらいの老人に道を尋ねた。しばらく道路標識にお目にかかっていない時間帯で、正しく中山道を歩いているかどうか不安だった。1車線の車道の両サイドに歩道のある場所であった。「これ中山道ですね?」「これは歩道。そちらが中山道だ」指差されたのは歩道と並行して走る車道だった。
次は、夕飯を食べに入った熊谷の蕎麦屋の女将さん。楽しい人で中山道のことをあれこれ聞かれた。街道歩きに興味をお持ちのようだった。ついでに言っておくが蕎麦は大変美味しかった。
5つ目は、熊谷から鴻巣までの道中の道端のそう大きくは無い畑の隅に柿の木があり、実がたわわになっていた。あとで確認すると昭和14年生まれの女性が、野良仕事に余念が無かった。「あの柿は渋ですか?」「いいえ甘いですよ。よければ差し上げましょうか」と、枝ごともぎ取り我々に数個づつくれた。それだけではない。辛み大根の話しから、辛くは無いが大きな大根やたまねぎの苗まで頂いた。
旅の大きな魅力の一つに見知らぬ土地の人たちとの出会いがある。今回お会いしたのはいずれもお年寄りの男女であったが3人ともお元気そのものであった。

初日11月9日(金)

さて、今回は深谷駅からスタート。
前回までは、大阪からほぼ1日かけワイドビュウしなの特急で軽井沢経由であったが、今回からは新幹線を使って東京回りになる。

出足からちょっとしたハップニングがあった。相棒がカメラを車内に忘れたということで慌てたが結果的には首に巻きついていて事なきを得た。
駅前の渋沢栄一さんの銅像は、今朝はクレーン車が放水してお化粧中であった。
中山道通りに入って直ぐ「からさわかわ」に架かる「ぎょうにんばし」を越えると、深谷駅の赤いタイル張りを模した「深谷郵便局」があった。早速1,000円貯金。通帳の数字は既に4万円を越えている。これで完歩の暁には大いに祝完歩の会を盛り上げたいものだ。
歩き出して先ず注目するのは旧深谷宿常夜灯。4mの高さは中山道ではもっとも大きいという。
道路の左側に埼玉県立深谷第一高等学校があった。文科系の活動の盛んな学校のようで全国大会出場の横断幕が張り巡らされていた。レンガの産地の趣は駅舎や郵便局にも見られたが、この学校のフェンスも赤レンガの趣を呈している。深谷市はねぎで有名だがレンガでも有名だ。
深谷高校の中山道を挟んだ向い側に、観光案内にも出ていた「見返りの松」があった。
隣の宿「熊谷」が飯炊き女を禁止していた反動で、この深谷宿には旅館、旅籠が林立していたと案内書で読んだ。江戸から西へ歩く旅人は昨夜の女との別れを惜しんだという松である。
深谷高校の隣に市立幡羅(はたら)中学校が並んで建っている。
愛宕神社を過ぎる。この辺りから閑静な住宅街が続く。左右にポプラの並木。ただし車道は相変わらず車の往来が激しい。駅から4kmほどしか歩いていないのに本日2回目の郵便局に出会う。幡羅(はたら)郵便局。少し歩くと京都の伏見稲荷とよく似た赤い鳥居の続くのを左に見てそのまま進む。
先ほどから中山道の標識を見ない。標識がないと間違った道を歩いているのではないかという不安に襲われる。
国道17号線に出てから「中山道→」の看板が見えたのでほっとする。右へ折れてすぐに「農林総合研究センター」があったのでここでショートブレイク。
樹齢300年の欅の一里塚が住宅街の真ん中に立っている。ここを過ぎると再び国道17号線に合流。「川の博物館」という標識が信号灯の横に見える。熊谷警察の前を通り過ぎるころには早くも街をゆく車は点灯している。
午後528分やっと本日の差し当たっての目的地「熊谷駅」に近づいてきた。午後540分駅前。「ホテルR&B」への道筋を訊ねてホテル到着は午後550分。
一旦部屋に荷を解いて夕食に出かける。今夜は駅近くの蕎麦屋さん「木村屋」。駅の案内所で訊ねたときは「閉まっているかもわかりませんが…」ということであったが閉店ではなかった。ここの女将さんが「中山道」に大変興味を持っておられて、いろいろ質問が返って来る。お蕎麦も大変美味しかった。


2日目1110日(土)

天気予報によれば今日は雨。だが朝は陽がさしていた。
840分ホテルをスタート。直ぐに中山道に入る。このあたりの中山道は83号線。しかし直ぐに17号線に入る。
この辺りの地名にも銀座という名前が使われている。少し町並みの雰囲気が田舎っぽくなった所で、自宅の前にいたおばさん(50歳ぐらい?)に念のため訊ねてみた。「旧中山道はこの道ではありません」といって詳しく教えて頂いた。多分17号線と平行に走っているもう少し細い道だろう。直ぐに教えてもらった道を歩き出すと中山道に出た。
歩きだして直ぐ、道に沿って拡がる100坪ほどの畑で働くおばあさん(見かけはおばさん)に出会った。柿がたわわになっていたので「あれは渋柿ですか?」と尋ねた。「いいえ甘柿ですよ」と数個づつ枝ごともぎって我々にくれた。大根も引っこ抜いてくれた。下仁田ねぎも植わっていたがつい先ほどのスーパで買ったばかりだった。最後に玉ねぎの苗も2,30本頂いた。ここでの30分は楽しい出会いであった。
先を急ごう。
中山道らしい雰囲気を持った道が続く。「東竹院」の看板を見た。道から少し入組んでいる場所だったが立ち寄ってみる。柿と大根で背中のリュックは少し重くなっている。この辺りは車も少なくまさに中山道らしき雰囲気の道。少し行くと右側に荒川の堤が見えたので堤防道を歩くことにした。結果的にはこれが中山道だったが当初は脇道だと思っていた。
堤防道は1時間ぐらい歩いたのだろうか。中山道を歩きだして初めて「富士山」の姿を目にすることが出来た。遥か南西の方角になると思うが冠雪した富士が薄くではあるがはっきり見えた。堤防だけに風が強くなったが空は雲も無く青一色。ジョギングする人が次々私たちを追い越してゆく。昭和229月の「キャサリーン台風」でこの荒川が氾濫し決壊した。そのモニュメントとして『決壊の跡』の碑が建っている。
また手作りの看板があった。矢印と中山道の文字が決して美しいとはいえない字体で書かれている。タイミングのよい場所に建てられたこんな看板は中山道を歩くよそ者には実に有難い。
堤防を降りたところに「権八地蔵」があった。鳥取藩士平井権八は脱藩し、江戸へ逃れる途中で絹商人を殺害し、この地蔵に「誰にも言わないで」と頼むと「我は言わぬが汝も言うな」という返事が返ってきたという。説明の添え書きに「鴻巣市指定民俗資料」とあった。
「中山道トイレ」と書かれた看板を過ぎてしばらく進むと「中山道至熊谷宿」の立派な石碑があった。吹上の街に入り「吹上神社」に立ち寄る。吹上駅は直ぐ近くにあった。駅前の歌壇には「ひな人形と花の町こうのす」の大きな丸い看板。
タクシーの運転手に教えてもらった「たけや」という食堂で昼食。
『中山道こうのすふきあげ』と赤色で書かれたまだ新しい石碑。また電柱に張られた手作りの張り紙。「中山道この先歩道なし車に注意」。旅行者には暖かい心遣いを感じ取れる。「JR北鴻巣駅」の表示を過ぎる「武蔵水路」を越えると「虫封じ祈願郷社氷川八幡神社」。「箕田郵便局」の前を通ったが今日は土曜日で休局。『箕田小学校』には「ひなん所」の金属性看板。街路にはコウノトリの絵が貼りこまれている。鴻神社を過ぎると鴻巣駅入口の看板が信号灯の横に、鴻巣郵便局を過ぎると鴻巣駅は目の前だった。
駅到着は1620分。予定より早かった。 


渓斎英泉  深谷の宿
お隣の熊谷宿が飯炊き女を認めなかったので
深谷宿はたいそう賑わったという。竹内の屋号
の書かれた提灯を持つやり手婆さんの後ろに5
人の女が続く。80軒の旅籠があった。

渓斎英泉 熊谷宿
荒川に面した茶屋で休む人々。傍らの行灯には 
「あんころ」「うんどん」と書かれている。また右の
石柱には「右おしげうだ道 左深谷2里2丁」の文
字が読み取れる。



渓斎英泉 鴻巣宿
明和4年の大火のあと幕府の援護の元大きく復興した
この宿は関東平野の中央部に属し当時は富士山もく
っきり見えたようだ。



2012年10月12日金曜日

中山道第26日目「高崎~倉賀野~新町~本庄~深谷」




妙義山の奇怪な頂


中山道第26日目 「めがね橋・アプトの廃線」と「高崎~倉賀野~新町~本庄」「本庄~深谷」
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所要時間 初日 午後45分坂本駅到着。直ちに駅前の構内タクシーで「めがね橋」に向う。

アプトの鉄道が走っていた「めがね橋」

        めがね橋からの帰途約4kmはアプトの廃線跡を横川駅まで歩く。


                                                                                                         
1日目 坂本駅16:05到着・初日は「めがね橋」「アプトの廃線跡」  
2日目 高崎~倉賀野~新町~本庄  8時間50分 歩数42286 歩   
3日目 本庄~深谷         6時間5分  歩数24053
    

2年半かけて手抜き(足抜き?)無しで歩いてきた400km余。目的の日本橋までの残りは約100kmほどだろうか。
これから先は、国道をも交えてほとんど市街地になるようだ。きびしい峠の登り下りも苦しかったが、車の行き交う舗装道路のほうが変化に乏しく、むしろよりいっそう疲れを感じるだろう。

今回も2泊3日のスケヂュール。初日は前回行けなかった「アプトの鉄道跡」と「めがね橋」。この日の内に高崎まで行き一泊。2日目は高崎宿から倉賀野宿、新町宿を経て本庄の宿までの19,5km。3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7kmを歩いた。

 2日目は9:45にプラザホテルスタート。いつもの事ながら予定していた時間より今日も遅れる。しかし何のことはないこのホテルはまさに中山道に建っていたのだ。倉賀野宿までは5,9km。倉賀野郵便局が街道沿いに建っていたので例によって1,000円貯金。ここで「お~いお茶」のボトルの差し入れを受ける。中山道で39番目に入った郵便局だったがお茶のサービスを受けたのはこれが初めて。
倉賀野宿では中山道と日光例弊使街道の分岐点があった。左へ行けば日光坊中へ右へ行けば中山道。国道1号線、8号、21号、今まで国道と仲良くしてきたが、この辺りに来ると国道17号と添いつ離れつして歩く。本庄宿の7km手前に「神流川」がある。滝川一蓋という人が北条氏に討ち取られた場所と説明板にあった。国道の看板には「東京まで98km」と書かれていた。もう100kmをきったのだ。
何度も言うようだがこれから先は市中の舗装道路を歩くことになるのだろう。あの和田峠の長い峠路で靴擦れに苦しみながら歩いた辛さや、1m先の足元をを大型トラックが猛スピードで走る真っ暗な夜の国道の恐怖。石畳の琵琶峠、1mも無い細い崖道の碓氷峠などなどが懐かしく思い出される。それらの悪路と比べればこのあたりは極楽だ。が、舗装道路というのは歩きやすいが単調で変化が無い。

 3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7km。
この日は10km余の道中で3組の中山道歩行者に遭った。
男性単独行二人と40歳台ぐらいの夫婦者。
終着の深谷駅まで残り5kmほどの村の「まるや」というお店で1時間ほど時間を使った。最初は店の前にある飲み物ベンダーが目的だったがこの屋の孫娘3歳の「あやちゃん」の可愛らしさについつい長居してしまった。これも旅の楽しさの一つだ。時間に余裕があったのも良かった。

 さて今回、初日は前回(614)と全く同じ時間、同じルートで913()午後45分に軽井沢駅からバスに乗り継いでJR横川駅に到着。駅前の釜飯販売店でそばを食べていたタクシー運転手の食べ終わるのを待って、直ぐ「めがね橋」に向う。この橋は正式には「碓氷第3橋梁」と言い、4連アーチのレンガ作りで、全長91m、高さ31メートル、使用されているレンガは約200万個という。横川駅の方からアプトの廃線跡を登ってきた人は、この橋の上で「めがね橋って何処?」と訊く人もいるという。橋へ登る袂の坂道は急だった。こんな山の中にかかわらず多くの見物客の姿があった。昭和38年頃まではこの橋の上を蒸気機関車が走っていたという。

帰途は徒歩で先程タクシーを拾った横川駅までの4kmを、5つのトンネルをくぐってアプトの鉄道廃線跡を歩いて下る。廃線跡に興味を持っているので御機嫌だった。ここは宝塚から武田尾までの廃線跡と違って、来客ウエルカムの受け入れ姿勢が感じられ、廃線跡の線路道も舗装されて歩きやすい。レンガづくりの旧丸山変電所前を通り過ぎ1時間ほどかかって横川駅に到着する頃には辺りはすっかり日が落ちていた。タクシー運転手が熱心に勧めてくれた「峠の湯」には、残念ながら行く時間が無かった。

今回の歩行ルートではなかったこの日の「めがね橋」と「アプトの廃線跡」と、あとで述べる深谷宿まで残り5kmほどの茶店「まるや」さんでの休憩時間が、今回の中山道歩きではもっとも印象に残った。
この日は横川駅から30分先の高崎までJRに乗り高崎で一泊。夕飯は横川駅前で買って持ち歩いていた「峠の釜飯」で、アプト廃線跡の途中で食べた。何度食べても中味はたっぷり、ご機嫌な弁当だ。


2日目914日(金)
昨夜の宿は、飲食店が軒を連ねる小さなビルで、3階から上がホテルになっていた。
高崎の町を国道17号線とほぼ平行して北にまっすぐ歩き上信電鉄の踏み切りを越える。
高崎宿から倉賀野宿までは、約6kmほど、これから東京日本橋までの中山道は、車の行きかうこのような市中の舗装された道路が続くのだろう。この辺りは中山道の案内標識が次々に表われ旅行者には優しい。標識を見ると正しい道を歩いていることが確認できてほっとする。
ここまで歩いてきた道すがらにおいても、しばらく標識にお目にかからない時に、道を間違っていることが何度かあった。

「新後閑町(シゴカマチ)」の信号を越える。
「たかべん・高崎弁当株式会社」と3,4階建ての低くて長いビルの屋上の横断的に書かれた会社の前を過ぎる。「真っ赤なだるまさん」が弁当を食べているマークが面白い。
「倉賀野宿1,3km」の縦標識の前を過ぎる。「七佛薬師如来・安楽寺」に差し掛かる。ここで休憩ではないが寸時立ち寄って写真を撮る。「倉賀野神社」の案内矢印を電柱に見たが、少し距離がありそうなのと、先程から空腹感が強くなってきているので、そのまま真っ直ぐ歩くことにした。
さて、多分倉賀野宿に入ったのだろう。
倉賀野郵便局が通りに面して建っていた。早速、例により1,000円貯金。ここで休憩も兼ねる。よほど疲れた顔をしていたのだろうか、職員の方から(お~いお茶)のボトルを頂いた。街道沿いの郵便局に何十回も立ち寄ってきたが、お茶のサービスを受けたのは今回が初めて。勿論渇いた喉には冷たいお茶は大変ありがたかった。

「上町(カミチョウ)」の信号を見る。「中町」「下町」の信号もあった。当然読み方は「ナカチョウ」「シモチョウ」。しばらくするとV字に分かれた追分に出る。「従是右江戸道左日光道」と人の背丈ほどの高さの石柱に彫りこまれている。説明看板には「中山道は倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる(以下略)」と読める。この分かれ道には道しるべの他に、常夜灯と閻魔道がある。日光例幣使街道はここから始まるということだ。

「新柳瀬橋北」の信号、「左玉村、右藤岡⑬」「岩鼻」の信号を次々に過ぎると、先ほど立ち寄った郵便局員さんに聞いた蕎麦屋さん「梅田屋」が現れた。暖簾に木造の蕎麦屋さんをイメージしていたが、真っ白のモルタリ貼りの建物、中に入ると大勢のお客さん、こんなお店は大抵外れが無い。好物の「おろし蕎麦」を注文。期待通り頭の芯にくるほどの辛み大根の辛さ。蕎麦はご機嫌だったが帰り際に聞いた「200メートルほど先の烏川の橋を越えれば埼玉県ですよ」は、どう考えても正しくない。埼玉県入りはずっと先の橋を越えてからだった。

国道17号に合流すると「本庄10km 熊谷31km 東京98km」の標識が目に入った。最終目的地までもう100kmを切ったのだ。「藤岡市立石」の標識のあとで「高崎市」の標識、しばらく行くと「藤岡市立石東」の標識。高崎市の一部が立石市の中にこの辺りで食い込んでいるのだろうか。

しばらくは国道17号を行く。「新町宿」に入ったようだ。「新町郵便局」が通りにあった。今回は郵便局によく出会う。

この辺りで次の本庄宿までは7km余。ゆっくり歩いても2時間の距離だ。
神流川に架かる長い橋に差し掛かる。天正10年信長が本能寺で倒れた時、滝川一蓋と言う人があだ討ちのため京に向う途中、北条氏にここで討ち取られたと言う古事を書き記した説明板と縦長の大きな石碑がある。

新町宿では道を間違った。
200mほど戻って正道に返る。「かんなかわはし」と袂に書かれた橋を渡る。「金窪之郷 八幡神社」で10分間の小休止。其処から先にK’s電気のお店があったので手洗いを借りに入る。冷房の効いた建物に入るとすっとするが、外に出るのがいやになる。「中山道新町宿」と彫られた黒っぽい石柱が道路際にあった。街道の説明本にあった神社の前には狛犬(獅子?)の横に「本庄新八景 本庄まつりと金讃神社」の石柱。境内には樹齢350年のクスノキ。

本庄市中央3丁目の信号を過ぎ「本庄駅入口」の信号を右折して目の前に迫ってきた本庄駅には、もう灯りがともっていた。時計は午後552分を指していた。今夜の宿泊「埼玉グランドホテル」は駅に隣接していた。

3日目915日(土)

今日の予定は深谷宿までの10,5km。午後5時までに深谷駅に到着すれば良いので気持ちにはゆとりがあった。そのゆとりの所為かホテルのスタートは930分になった。
駅の南側から北側にエレベーターを利用して渡る。昨日右折した「本庄駅入口」の信号の角までは約500mほどだったろうか。右折して中山道入る。「本庄東中前」の信号を過ぎしばらく行った所で、東から西へ向う一人歩きの男性に会った。出身は九州だと話しておられた。

「日の出4丁目」の信号のある交差点を過ぎ「新泉橋」にかかる。下を流れる川の名は「元小山川」。
昨日は3つの宿を跨ぎ歩いたが今日は10km先の深谷宿だけを目指す。この10kmの間に3組の対向者に会った。2度目にあった人はまだ現役の働き盛りらしく、連休を利用して5日間の日程で京都を目指しているとのこと。今回の歩行予定には碓氷峠も含まれる。つい先日歩いてきた峠路を、これから歩かれるとは羨ましい気もする。
次に出会ったのは40歳代ぐらいの若い夫婦ウオーカーだった。
村を外れるとぱっと明るい畑道に出た。

「こやまがわ」と彫ってあるようだが判読し難い川に架かる「たけおかはし」を渡ったころから明るいオープンな畑道を歩くことになった。

しかしそれも束の間、また国道17号に入る。しかし少し歩くと「右中山道」の標識。少し迷ったが地元の人に確認。

国道を右に曲がり村道に入って200mほど歩くと「まるや」と書かれた看板のお店から「少し休んでいきませんか」と声がかかった。丁度ジュースベンダーも見えたのでここで飲み物を仕入れるためリュックを下ろしてショートブレイク、と思ったのだが、結果的には1時間近く休ませてもらうことになった。60数歳のご主人とあやちゃんという3歳のお孫さんとそのお母さん。あやちゃんは、おもちゃのマイクを持って一小節フルに歌ってくれた。あやちゃんの仕草に見とれていると、奥からもう一人お爺ちゃんが出てきて、家の横に置いてあった小さな車に乗って、さ!と走り去った。あやちゃんの97歳の祖々父であるという。97歳で車を運転して魚釣りに行かれたそうだ。「97歳で運転大丈夫なんですか?」失礼なことを聞いてしまった。
しかし驚いた。生きているだけでも大変なのに車を運転して魚釣りとは…。
この場を離れ難かったが先を急がねばならない。あやちゃんにさよならして再び東へ向う。

「産泰神社」を過ぎる。「普済寺入口」の看板、しかしお腹が減って仕方ない。コミュニティバス「岡谷西」というバス停を過ぎると2階建ての家の屋根と高さほどもある「そば処伊勢路」と書かれた大きな看板。ごく!と喉が鳴った瞬間「本日お休み」の文字。

空腹街道を情けない顔をして歩くこと20分、今度は間違いなくオープンしている「大興」という中華料理屋。ここで十二分に腹ごしらえをした。念のため店の人に中山道のルートを確かめて再び歩き出す。17号線に入る。「宿根」の交差点で再び17号線を出る。この辺りの中山道は国道と手をつないでつかず離れずの仲という感じ。

宿根総鎮守・瀧宮神社」を左に見て過ぎる。もう深谷の駅も近そうだ。右に曲がり踏切を渡った所に建つ「浄土宗清心寺」に立ち寄った。ここまで来れば時間にゆとりがある。
「清心寺」には平清盛の弟、武勇その名の優れた平薩摩守忠度のお墓がある。
清心寺からは深谷の駅はもう目と鼻の先だ。深谷は宿場らしき趣きは全く感じられない。宿名の書かれた標識も目に入らなかった。嘉永元年創業の蔵元、前橋藤三郎商店の「東白菊」の大きな煙突、いせや本店を過ぎた次の信号を右折すれば駅は目の前。JR深谷駅は東京駅(丸の内)をモチーフにしたレンガ模様の立派な建物。駅正面には「渋沢栄一」の大きな銅像。横のからくり時計にも渋沢栄一の名が冠されているそうだ。
今日はこの駅から東京経由で帰途につく。


平清盛の弟 平忠度の墓



 東京駅を彷彿させるJR深谷駅




異様な頂を持つ「妙義山」

鉄道唱歌十七に詠われている

「鉾か剣か鋸か獅子か猛虎か荒鷲か虚空に立てる
岩のさま石門たかく雲をつく」



 
広重:「高崎宿」


英泉:倉賀野宿
江戸期において倉賀野は水運の要所であったという

広重「新町宿」
画面右手の橋は温井川にかかる虚空蔵橋
と言われている


英泉(無款):本庄宿

英泉:「深谷宿」
旅籠が80軒を数え繁盛していたという