2012年11月24日土曜日

中山道第28日目鴻巣~浦和241116


 中山道第28日目  「鴻巣~桶川~上尾~大宮~浦和」
                                                         241116()17() 

                                                                                                         
1日目 鴻巣駅12:32着 鴻巣~桶川~上尾4時間50分 歩数23017
2日目       上尾~大宮~浦和 6時間35分 歩数29479歩   

    

前回に続き今回も12日の行程だ。
2年半前にスタートした中山道も今回を終われば最終回の22,8km一回を残すのみとなった。
今回の23,2kmを含め、残すは487kmだ。最終回の22,8kmは余裕を持って道中を充分楽しみながら歩きたいと思う。時間的には12月実施可能であるが、楽しみを使い急ぐのは惜しい気がするので年明けに実施したいと考えている。   

さて今回は前回のように特記事項はあまりなかった。
ただ2日目の17日は大阪も東京も雨だったのに、我々が歩く中山道には雨が全く降らなかった。中山道のお天気神は老齢の我々を哀れんで雨を他の地域に配分してくれたのだと思う。

初日1116日(金)

鴻巣駅を1240分にスタートした。
歩き出して直ぐに鴻巣郵便局があり早速1,000円貯金。

「鴻巣本陣跡」の石碑が道路脇に建っているが建物の跡形はない。熊谷から鴻巣へ入る道すがらには道路にコウノトリの石細工が施してあったが、何故かここには兎が笑っているイラスト。

 本町の信号を過ぎると「鴻巣宿」の黒い石碑。雛人形の街だけあって「雛人形町」の赤い幟が街路灯の黒いポールに下げられている。「臼井人形店」、「124日酉の市」のポスター、「ひなの里」の石碑を横目に見ながら「広田屋ひな人形」のひときわ大きな看板。2階部分のショーウインドウには「五条の弁慶」という見出しで、牛若丸と弁慶の人形が五条大橋で立ち会っているシーンが見える。また店の前には「長寿橋」の模型が置かれ、中国の古事にちなんでこの橋を渡ると長生きするという説明が読める。

北本市に入り「深井二丁目」の信号を過ぎる。
「魚孝鮮魚センター」「麩まんじゅう・やまと」の店、「星乃コーヒ」「がってん寿司」などレストラン街のような通りに続いて「村社・浅間社」があった。「奉祝天皇陛下即位20年記念植樹」の表示も見える。右北本駅の標識。我々が今歩いているのは164号線らしい。多門寺はそのまま通り過ぎる。と言うより門が閉まっているので入れる雰囲気ではない。やっと見つけた「中山道街路灯NO26北本市」の黒くて大きな石碑。中山道の標識を目にすればほっとする。「中山道北本宿」という石碑を見つけた。はて?中山道に「北本宿」というのがあったのか。私が見た書物にはこの名前の宿はなかったがー。
説明板によると、もと本宿として存在していたが鴻巣宿に吸収されたようだ。「北本宿」の表示は街道沿いで何度もお目にかかる。北本宿という市民権をアピールしているかのようだ。

しばらく行くと「北本市本宿」という信号があった。「もんじゃ焼きとお好み焼き」のお店、もんじゃ焼きを食べて見たいと思ったが時間的余裕はなかった。つづいて「北本湯楽の湯」温泉だ。お風呂好きにはここでの泊まりならぜひ浸かって見たい雰囲気の湯。

「桶川市役所入口」の信号表示に続き「中山道桶川宿」の石碑。桶川の宿に入ったのだ。
「うどん蕎麦今福屋」「50m先稲荷神社」のあと「中山道桶川宿手洗い処」の案内表示。この宿は街道歩きの人間に親切なのだろう。
『左上尾宿34丁』の石碑前で写真を一枚。桶川駅前通りを過ぎると「あった!」「武村旅館が!」。街道を東から西へ歩いている先輩から推薦されていた旅館だ。しかし予約電話を入れたら「長逗留者が居るので」駄目と断られた。いかにも中山道らしい純日本式旅館の風情。ここに泊まれなかったので今回は上尾の第一ホテルにした。私の星は二つだった。
上尾市の信号灯看板を通り過ぎればそこは夕暮れの始まりだった。「がってん寿司」を過ぎ、「彩の国平成の道標」の標識を写真に収めた時、辺りはもう薄暗くなっていた。
今夜の宿は「上尾第一ホテル」で駅には大変近い。
 

二日目1117日(土)

今日は全国的に天気が悪いという予報であるしかし朝方、天気は悪くなくむしろ晴天であった。
ホテルスタートは9時。信号灯に「上尾駅東」の看板を見て中山道に入る。明日18日はシティマラソンが行われるらしい。あちこちに看板が立っている。「シティマラソン開催中につき中山道は通行できません」迂回をお願いします」

しばらく歩いたところで念のため、家の前をほうきがけしているおばさんに「中山道はこの道でいいのですね?」と訊ねた。「違います。旧道はあっちです」。直ぐに教えられた方向に道を変えた。なるほど中山道らしき道に出た。尋ねてよかった。街道歩きの経験で必要以上に道を尋ねたほうがいいということを知っているが、まさかという思いから声をかけずに過ぎることがよくある。間違いは早めに正すのがよい。小田井宿~追分宿のように次回に正しい道をなぞりなおすこともあったのだ。

「愛宕神社」を過ぎる。またシティマラソンの看板。「大会当日走路となるため通行止めとなります」。急に小用を足したくなったので大きな商業施設のようなビルに入っていく。トイレの所在を尋ねれば「奥のボーリング場の中にあります」と言う。計らずもボーリング場というところに何十年ぶりかで入った。
横浜ゴムの配送センター、広い駐車場を備えた大型商業施設「バリュープラザ」、「コーセ化粧品埼玉支店」、「さいたま市営コミュニティセンター」、赤い鳥居があざやかな「南方神社」、「宮原中学校」、「大宮北高校」、「宮原小学校」、などを過ぎれば「加茂神社」。五穀豊穣と萬物を育てる神と説明が読める。境内で10分間休憩。
宮原駅入口の信号灯看板を過ぎる。道路標識から察するに中山道はこの辺りでは国道164号になるらしい。「家具ホームセンター・島忠」。通りに面して「かっぱ寿司」があったのでトイレを借りに入る。「大宮郵便局」「天理教埼玉教務支庁」前を過ぎる。「官幣大社氷川神社」の大きな石柱の手前にある高架下をくぐる階段の降り口に「なにかあったら『いかのおすし』」と書かれていた。これを見た当時は、この言葉が防犯標語だということが私には全くわからなかった。
官幣大社氷川神社の石碑の真正面の道端で10分間の休憩。
1235分大宮駅前に到着。交差点近くのラーメン屋に行列が出来ているのを見て、きっと美味しい店だと判断し行列に並ぶことにした。とんこつラーメンは期待通りであった。この店の向いは高島屋百貨店だった。
お腹もふくれ30分の昼食休憩もとったので、残り4,9kmの浦和宿を目指して再び勇んで歩き出した。「ニューライフカタクラ」はゴルフの練習場だろう。

ケヤキの並木道が延々と続く。道中記に2kmと書いてあったが2kmの距離よりは短いだ
ろう。この並木をdf抜けるとさいたま新都心の新しい町に出た。いかにも出来たてのまっさらの街の感じ。
「一本杉」と書かれた古く汚れた石碑が道路際にあった。「この地は、中山道界隈で一本杉の仇討ちとして語り継がれた事件のあった場所です」。水戸藩士宮本佐一朗の息子鹿太郎が、針ヶ谷村の一本杉で父の仇討ちをしたという話が、中山道界隈に語り継がれたということです。

道中記にも書かれていた浄土宗「廓信寺」に来た。時間に余裕があったので入ることにした。敷地内には幼稚園が併設されている。「厚徳幼稚園」。「秩父宮妃殿下御成お手植えの樹」は(紅梅)。昭和3255日の日付だが表示板に古さは感じない。

再び街道に戻る。さすがサッカーの町。浦和レッズの応援表示が通りのあちらこちらに見える。『町が赤く染まる日REDS戦いの日』という勇ましい看板。道端に並ぶ「レディア像」や選手の手形・足型の銅版。
常盤公園への導入路に、農婦が手に大根、足元にかぼちゃを置いた銅像が3体あった。
街角に建つ「中山道浦和宿」の石碑は優に2メートルはある。
左浦和駅、右県庁の大きな標識を過ぎれば浦和駅西口に到着。


渓斎英泉 桶川宿
農家の軒先に名産の葉煙草、農婦の手には中山道
麦、なんとものどかな秋の昼下がり。



渓斎英泉 上尾宿
私も立ち寄った賀茂神社。その隣の農家では今
稲こきの真っ最中か。




渓斎英泉 大宮宿
あの賑やかな今の大宮宿から、当時は富士山が
見えたとは…


渓斎英泉 浦和宿
当時は300軒の宿場であった。噴煙のたなびく浅間山
が望めていたとは…。季節は早春といわれている。


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