2012年11月22日木曜日

中山道第27日目「深谷宿から鴻巣宿」


中山道第27日目  「深谷~熊谷~鴻巣」

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1日目 深谷駅13:13着。深谷~熊谷  4時間20分 歩数25718
2日目 熊谷~鴻巣(駅着1620分)  7時間40分 歩数32312歩   

    

今回は久し振りの12日の行程だ。
深谷駅を1330分から歩き初めて初日は10,7kmであったが、宿場の位置と駅の位置を読み違えたのか随分遠い距離を歩いたような感じであった。実際万歩計の表示も25718歩、経過時間も4時間20分かかった。
これに反して2日目は16,3kmであったが、32312歩で予測していたよりも短く感じた。
特記すべきハップニングが5つほどあった、

先ず中山道を歩いて始めて富士山が遥か彼方ではあったが見えたこと。
次に朝ホテルで勘定を済ませた時、籤引きサービスがあり『当たり』くじを引いて現金千円が当たったこと。
3つ目。熊谷の宿場で80歳ぐらいの老人に道を尋ねた。しばらく道路標識にお目にかかっていない時間帯で、正しく中山道を歩いているかどうか不安だった。1車線の車道の両サイドに歩道のある場所であった。「これ中山道ですね?」「これは歩道。そちらが中山道だ」指差されたのは歩道と並行して走る車道だった。
次は、夕飯を食べに入った熊谷の蕎麦屋の女将さん。楽しい人で中山道のことをあれこれ聞かれた。街道歩きに興味をお持ちのようだった。ついでに言っておくが蕎麦は大変美味しかった。
5つ目は、熊谷から鴻巣までの道中の道端のそう大きくは無い畑の隅に柿の木があり、実がたわわになっていた。あとで確認すると昭和14年生まれの女性が、野良仕事に余念が無かった。「あの柿は渋ですか?」「いいえ甘いですよ。よければ差し上げましょうか」と、枝ごともぎ取り我々に数個づつくれた。それだけではない。辛み大根の話しから、辛くは無いが大きな大根やたまねぎの苗まで頂いた。
旅の大きな魅力の一つに見知らぬ土地の人たちとの出会いがある。今回お会いしたのはいずれもお年寄りの男女であったが3人ともお元気そのものであった。

初日11月9日(金)

さて、今回は深谷駅からスタート。
前回までは、大阪からほぼ1日かけワイドビュウしなの特急で軽井沢経由であったが、今回からは新幹線を使って東京回りになる。

出足からちょっとしたハップニングがあった。相棒がカメラを車内に忘れたということで慌てたが結果的には首に巻きついていて事なきを得た。
駅前の渋沢栄一さんの銅像は、今朝はクレーン車が放水してお化粧中であった。
中山道通りに入って直ぐ「からさわかわ」に架かる「ぎょうにんばし」を越えると、深谷駅の赤いタイル張りを模した「深谷郵便局」があった。早速1,000円貯金。通帳の数字は既に4万円を越えている。これで完歩の暁には大いに祝完歩の会を盛り上げたいものだ。
歩き出して先ず注目するのは旧深谷宿常夜灯。4mの高さは中山道ではもっとも大きいという。
道路の左側に埼玉県立深谷第一高等学校があった。文科系の活動の盛んな学校のようで全国大会出場の横断幕が張り巡らされていた。レンガの産地の趣は駅舎や郵便局にも見られたが、この学校のフェンスも赤レンガの趣を呈している。深谷市はねぎで有名だがレンガでも有名だ。
深谷高校の中山道を挟んだ向い側に、観光案内にも出ていた「見返りの松」があった。
隣の宿「熊谷」が飯炊き女を禁止していた反動で、この深谷宿には旅館、旅籠が林立していたと案内書で読んだ。江戸から西へ歩く旅人は昨夜の女との別れを惜しんだという松である。
深谷高校の隣に市立幡羅(はたら)中学校が並んで建っている。
愛宕神社を過ぎる。この辺りから閑静な住宅街が続く。左右にポプラの並木。ただし車道は相変わらず車の往来が激しい。駅から4kmほどしか歩いていないのに本日2回目の郵便局に出会う。幡羅(はたら)郵便局。少し歩くと京都の伏見稲荷とよく似た赤い鳥居の続くのを左に見てそのまま進む。
先ほどから中山道の標識を見ない。標識がないと間違った道を歩いているのではないかという不安に襲われる。
国道17号線に出てから「中山道→」の看板が見えたのでほっとする。右へ折れてすぐに「農林総合研究センター」があったのでここでショートブレイク。
樹齢300年の欅の一里塚が住宅街の真ん中に立っている。ここを過ぎると再び国道17号線に合流。「川の博物館」という標識が信号灯の横に見える。熊谷警察の前を通り過ぎるころには早くも街をゆく車は点灯している。
午後528分やっと本日の差し当たっての目的地「熊谷駅」に近づいてきた。午後540分駅前。「ホテルR&B」への道筋を訊ねてホテル到着は午後550分。
一旦部屋に荷を解いて夕食に出かける。今夜は駅近くの蕎麦屋さん「木村屋」。駅の案内所で訊ねたときは「閉まっているかもわかりませんが…」ということであったが閉店ではなかった。ここの女将さんが「中山道」に大変興味を持っておられて、いろいろ質問が返って来る。お蕎麦も大変美味しかった。


2日目1110日(土)

天気予報によれば今日は雨。だが朝は陽がさしていた。
840分ホテルをスタート。直ぐに中山道に入る。このあたりの中山道は83号線。しかし直ぐに17号線に入る。
この辺りの地名にも銀座という名前が使われている。少し町並みの雰囲気が田舎っぽくなった所で、自宅の前にいたおばさん(50歳ぐらい?)に念のため訊ねてみた。「旧中山道はこの道ではありません」といって詳しく教えて頂いた。多分17号線と平行に走っているもう少し細い道だろう。直ぐに教えてもらった道を歩き出すと中山道に出た。
歩きだして直ぐ、道に沿って拡がる100坪ほどの畑で働くおばあさん(見かけはおばさん)に出会った。柿がたわわになっていたので「あれは渋柿ですか?」と尋ねた。「いいえ甘柿ですよ」と数個づつ枝ごともぎって我々にくれた。大根も引っこ抜いてくれた。下仁田ねぎも植わっていたがつい先ほどのスーパで買ったばかりだった。最後に玉ねぎの苗も2,30本頂いた。ここでの30分は楽しい出会いであった。
先を急ごう。
中山道らしい雰囲気を持った道が続く。「東竹院」の看板を見た。道から少し入組んでいる場所だったが立ち寄ってみる。柿と大根で背中のリュックは少し重くなっている。この辺りは車も少なくまさに中山道らしき雰囲気の道。少し行くと右側に荒川の堤が見えたので堤防道を歩くことにした。結果的にはこれが中山道だったが当初は脇道だと思っていた。
堤防道は1時間ぐらい歩いたのだろうか。中山道を歩きだして初めて「富士山」の姿を目にすることが出来た。遥か南西の方角になると思うが冠雪した富士が薄くではあるがはっきり見えた。堤防だけに風が強くなったが空は雲も無く青一色。ジョギングする人が次々私たちを追い越してゆく。昭和229月の「キャサリーン台風」でこの荒川が氾濫し決壊した。そのモニュメントとして『決壊の跡』の碑が建っている。
また手作りの看板があった。矢印と中山道の文字が決して美しいとはいえない字体で書かれている。タイミングのよい場所に建てられたこんな看板は中山道を歩くよそ者には実に有難い。
堤防を降りたところに「権八地蔵」があった。鳥取藩士平井権八は脱藩し、江戸へ逃れる途中で絹商人を殺害し、この地蔵に「誰にも言わないで」と頼むと「我は言わぬが汝も言うな」という返事が返ってきたという。説明の添え書きに「鴻巣市指定民俗資料」とあった。
「中山道トイレ」と書かれた看板を過ぎてしばらく進むと「中山道至熊谷宿」の立派な石碑があった。吹上の街に入り「吹上神社」に立ち寄る。吹上駅は直ぐ近くにあった。駅前の歌壇には「ひな人形と花の町こうのす」の大きな丸い看板。
タクシーの運転手に教えてもらった「たけや」という食堂で昼食。
『中山道こうのすふきあげ』と赤色で書かれたまだ新しい石碑。また電柱に張られた手作りの張り紙。「中山道この先歩道なし車に注意」。旅行者には暖かい心遣いを感じ取れる。「JR北鴻巣駅」の表示を過ぎる「武蔵水路」を越えると「虫封じ祈願郷社氷川八幡神社」。「箕田郵便局」の前を通ったが今日は土曜日で休局。『箕田小学校』には「ひなん所」の金属性看板。街路にはコウノトリの絵が貼りこまれている。鴻神社を過ぎると鴻巣駅入口の看板が信号灯の横に、鴻巣郵便局を過ぎると鴻巣駅は目の前だった。
駅到着は1620分。予定より早かった。 


渓斎英泉  深谷の宿
お隣の熊谷宿が飯炊き女を認めなかったので
深谷宿はたいそう賑わったという。竹内の屋号
の書かれた提灯を持つやり手婆さんの後ろに5
人の女が続く。80軒の旅籠があった。

渓斎英泉 熊谷宿
荒川に面した茶屋で休む人々。傍らの行灯には 
「あんころ」「うんどん」と書かれている。また右の
石柱には「右おしげうだ道 左深谷2里2丁」の文
字が読み取れる。



渓斎英泉 鴻巣宿
明和4年の大火のあと幕府の援護の元大きく復興した
この宿は関東平野の中央部に属し当時は富士山もく
っきり見えたようだ。



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