2011年9月3日土曜日

中山道第20日目「上松~福島~宮ノ越~薮原」 23・7・9~10

    

 中山道第20日目上松~福島~宮ノ越~薮原」(23・7・9~10

7月9日(土) 


上ヶ松 (広重)
現在の上松宿の南のほうにある「小野の滝」を描いている。
旅人が渡っている橋は今国道になっている。

風邪がまだ完全に回復していない。一昨日には、「明後日は延期した方がいいだろうか?」と思った。でも弱気もいけないので決行することにした。















前回と違って今回は快晴。雨は困るが快晴というのもこの時期ではまだ曇りの方がいい。
今回は初日が少し辛かった。
しかし2日間とも道程はほぼフラット、19号線沿いの嫌な道も少しあったが、きつい上り坂が殆どなかったので助かった。


印象的な「檜の大木」のオブジェが鎮座する上松駅。「おおさわ」という上松駅前のス‐パ‐で、同行のN君はお稲荷を、私は葡萄パンを仕込んでからスタート。

最初のチェックポイントは「木曽の桟」だったがこれは結果的には見ることが出来なかった。19号線を素直に歩いていたら見られたのだが、わざわざまわり道になる木曽川の反対側を歩いたので見ることは出来なかった。木曽の桟は対岸から見る方が良いと、なにかの本に書いてあったのにー。

山道から出たところでこの
雄大な景色は印象的だった

橋梁工事の現場をすり抜けて舗装路を歩く。ここは国道のバイパス的に使われている道のようで時々ではあるが結構スピードを出して車が走り抜ける。昼ごはんを食べる場所を模索しながら歩くのだが、こんな道路から抜け出さない限り食事できるような場所がない。しかし、まさに背に腹は変えられず舗装道路の川へ下りる階段で腰を下ろす。なんとも表現し辛い場所であった。
しばらく行くと道の駅があった。
10号線に建つ「道の駅」から頭を雲間に隠した雄大な御嶽山が垣間見えた。
この辺りまで来れば木曽川も川幅が大分狭くなってくる。100mぐらいの川の中ほどで魚を釣っている男性の姿が見える。村の中に「一里塚の跡」の石碑を見つけた。(京へ六十七里、江戸へ七十里)と彫ってある。
木曽町に入る手前「塩渕」という信号を過ぎた。
木曽福島駅へは予定より早く着いた。もう20年になるだろうか。前述した信濃大町に住む友人夫妻とこの駅前で待ち合わせ、車にピックアップしてもらって、ここを出発点としてあちこち旅行した。その時のことを懐かしく思い出す。

宿泊する「むらち屋」は駅から数百メートルの所。入り口がくぐり戸になっている。腰をかがめて入る。今夜の夕食の予約はないので、早速待望の蕎麦屋「車屋」へ。しかし残念!売り切れ閉店。とりあえず耳にした「足湯」へ向う。もう一軒あるという蕎麦屋さんの所在を確認して先ほど歩いてきた「塩淵」交差点近くへ戻る。こうなれば少々遠くても初心貫徹。何としても蕎麦が食べたい。しかし、ここも売り切れで本日終了。仕方なく喫茶店のようなお店に入り何とか夕食を済ます。今夜はぐっすり寝れるだろうか。

710日(日)

この辺りは我がコミュニティ近辺と違い大分気温が低いのか、夜はクーラーなし、窓は締め切っていても暑くない。ぐっすり熟睡出来た。朝食をゆっくり平らげて宿の主人にシャッターを押してもらい第2日目をスタート。

宿から北へ広がる福島宿はさすが大きな宿場であった名残が多く見られる。小さな水車の横には「歩いて楽しむ町福島」「ここはウエンダです」の表示看板。古びた建物の「まつり会館」。高札場を過ぎると本陣跡。その場所に今は市の別館「木曽町木曽福島支所」が建っている。

宿を抜けると「高瀬資料館」があり、「高瀬奇応丸」の石碑。その辺りから細い道が上り坂になっており登りきった所に有名な「木曽福島の関所跡」の2メートルほどの大きな石碑。
ここは国の史跡になっている。時間があればこんな所でゆっくり見物したいが先を急ぐ。「出女に入り鉄砲」の取締りがここで厳しく行われたのだろう。
経路は再び国道19号に合流。しばらく行くと「手習い天神」。
木曽義仲が小さい時に師匠の中原兼遠に学問を習った故事にちなんでいる。

中間点の標識があるということは耳にしていた。
意味なく心待ちにしていた


そのまま国道を進む。懐かしい交差点に出た。15年以上も前、ゴルフ仲間4人と車に乗り合わせこの交差点を右に曲がって「木曽駒高原CC」に2度ほど行ったことがある。
旅籠蕎麦「水車家」の大きな看板。お腹の虫は今食べたくないと言っている。再び中山道に相応しい街道に出た。

そして待ちわびていたものにとうとう出会うことが出来た。
「中間点」の標識だ。
「中山道中間点」京へ266km6728町江戸へ266km6728町。「ああとうとう半分歩きおおせた」。ここは少し時間を使って感慨に浸る。
宮越一里塚を過ぎた。また小さな村に道は続いていた。道端の家の屋根の軒先に直径1メートルほどのゴムプール。女の子が二人水着を着て水浴び。見ているだけで涼しい気持ちになる。

「明治天皇御膳水」の井戸。どうやら宮ノ越宿場に入ったらしい。スーパー「スズキ」に入り冷風に身をゆだねる。缶ジュースを一本買って一息に飲み干す。宮越郵便局が通りに面してあった。だが残念!。今日は日曜日だった。
「蕎麦屋さんはありませんか」
「もう少し先を左に行けば街の女性の会が運営している店がありますよ」。
そこには「ともゑ庵」という看板が架かっていた。

地元の老夫婦と60歳の義理の息子さんの3人が先客だった。ざる蕎麦を注文してこの人たちと話し込む。旅の心休まるひと時だ。歩いて次の宿、薮原に行く我々を感心した面持ちで見ている。老人が「疲れたらバスもあるよ」と親切に言ってくれた。息子さんがすかさず「歩いておられるんだからバスは要らんの」

もっとここで座り込んで話したかったがそうも行かない。写真を撮り記念の証として店を出た。

一軒しかない食べ処
「ともゑ庵」


「伝説の残る巴が淵」の掲示看板。

「蒼蒼と巴が淵は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く」

という句が添えられている。句の彫られたいくつかの石碑を通り過ぎて「木曽川源流の里」(木祖村)という大きな看板の前に来た。何日間か木曽川とは手を携えて歩いてきた。その木曽川の源流に近づいてきたようだ。(長い距離を歩いたのだなあ)という感慨とともに、木曽川との別れが迫ってきているのを寂しく思う。

細い田舎道、また国道。トンネルが見えてきた。今回2度目のトンネルだ。国道のトンネルだけに344メートルのトンネル内は車の轟音が凄まじい。後日、ビデオを見たが何故かビデオの音は控え目だ。実際は表現のしようがないほど凄まじい。

トンネルを出たところから何人もの人にすれ違う。程なくわかったことだが豊鉄バスの奈良井~宮ノ越バスツアーの参加者達だった。

本陣跡には木曽町福島支部
が建っていた、

「道の駅」「こだまの森7km」「権兵衛トンネル10km」の標示看板を見て「菅(スゲ」の信号に出た。崩落防止コンクリート壁に巨大な彫り絵が貼り付けてある。幅2メートル長さは10メートルほどであろうか。

再び「木曽川源流の里」の大きな縦看板を過ぎたら薮原駅が前方に見えてきた。


福し満 広重
現在の福島の関跡の姿から、当時を彷彿させる。
 
実は、予定していた時間より1時間も早く着いたので、一便早い列車に乗ることが出来た。

さあ、次回は「鳥居峠」。その次は最大の難所と聞く「和田峠」だ。
厳しい峠を2つ控えて、暑さ厳しい8月はお休みにして、9月から再開することにした。

英泉の薮原 旅の男2人と女2人。御嶽山が後ろに聳える。

次々回からは、各宿からの鉄道アクセスが悪く連続3泊の行程になる予定。



 
 

1 件のコメント:

deepshell さんのコメント...

こういう浮世絵や浮彫の写真の添付はいいと思う。