2012年10月12日金曜日

中山道第26日目「高崎~倉賀野~新町~本庄~深谷」




妙義山の奇怪な頂


中山道第26日目 「めがね橋・アプトの廃線」と「高崎~倉賀野~新町~本庄」「本庄~深谷」
                            24913()15() 


所要時間 初日 午後45分坂本駅到着。直ちに駅前の構内タクシーで「めがね橋」に向う。

アプトの鉄道が走っていた「めがね橋」

        めがね橋からの帰途約4kmはアプトの廃線跡を横川駅まで歩く。


                                                                                                         
1日目 坂本駅16:05到着・初日は「めがね橋」「アプトの廃線跡」  
2日目 高崎~倉賀野~新町~本庄  8時間50分 歩数42286 歩   
3日目 本庄~深谷         6時間5分  歩数24053
    

2年半かけて手抜き(足抜き?)無しで歩いてきた400km余。目的の日本橋までの残りは約100kmほどだろうか。
これから先は、国道をも交えてほとんど市街地になるようだ。きびしい峠の登り下りも苦しかったが、車の行き交う舗装道路のほうが変化に乏しく、むしろよりいっそう疲れを感じるだろう。

今回も2泊3日のスケヂュール。初日は前回行けなかった「アプトの鉄道跡」と「めがね橋」。この日の内に高崎まで行き一泊。2日目は高崎宿から倉賀野宿、新町宿を経て本庄の宿までの19,5km。3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7kmを歩いた。

 2日目は9:45にプラザホテルスタート。いつもの事ながら予定していた時間より今日も遅れる。しかし何のことはないこのホテルはまさに中山道に建っていたのだ。倉賀野宿までは5,9km。倉賀野郵便局が街道沿いに建っていたので例によって1,000円貯金。ここで「お~いお茶」のボトルの差し入れを受ける。中山道で39番目に入った郵便局だったがお茶のサービスを受けたのはこれが初めて。
倉賀野宿では中山道と日光例弊使街道の分岐点があった。左へ行けば日光坊中へ右へ行けば中山道。国道1号線、8号、21号、今まで国道と仲良くしてきたが、この辺りに来ると国道17号と添いつ離れつして歩く。本庄宿の7km手前に「神流川」がある。滝川一蓋という人が北条氏に討ち取られた場所と説明板にあった。国道の看板には「東京まで98km」と書かれていた。もう100kmをきったのだ。
何度も言うようだがこれから先は市中の舗装道路を歩くことになるのだろう。あの和田峠の長い峠路で靴擦れに苦しみながら歩いた辛さや、1m先の足元をを大型トラックが猛スピードで走る真っ暗な夜の国道の恐怖。石畳の琵琶峠、1mも無い細い崖道の碓氷峠などなどが懐かしく思い出される。それらの悪路と比べればこのあたりは極楽だ。が、舗装道路というのは歩きやすいが単調で変化が無い。

 3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7km。
この日は10km余の道中で3組の中山道歩行者に遭った。
男性単独行二人と40歳台ぐらいの夫婦者。
終着の深谷駅まで残り5kmほどの村の「まるや」というお店で1時間ほど時間を使った。最初は店の前にある飲み物ベンダーが目的だったがこの屋の孫娘3歳の「あやちゃん」の可愛らしさについつい長居してしまった。これも旅の楽しさの一つだ。時間に余裕があったのも良かった。

 さて今回、初日は前回(614)と全く同じ時間、同じルートで913()午後45分に軽井沢駅からバスに乗り継いでJR横川駅に到着。駅前の釜飯販売店でそばを食べていたタクシー運転手の食べ終わるのを待って、直ぐ「めがね橋」に向う。この橋は正式には「碓氷第3橋梁」と言い、4連アーチのレンガ作りで、全長91m、高さ31メートル、使用されているレンガは約200万個という。横川駅の方からアプトの廃線跡を登ってきた人は、この橋の上で「めがね橋って何処?」と訊く人もいるという。橋へ登る袂の坂道は急だった。こんな山の中にかかわらず多くの見物客の姿があった。昭和38年頃まではこの橋の上を蒸気機関車が走っていたという。

帰途は徒歩で先程タクシーを拾った横川駅までの4kmを、5つのトンネルをくぐってアプトの鉄道廃線跡を歩いて下る。廃線跡に興味を持っているので御機嫌だった。ここは宝塚から武田尾までの廃線跡と違って、来客ウエルカムの受け入れ姿勢が感じられ、廃線跡の線路道も舗装されて歩きやすい。レンガづくりの旧丸山変電所前を通り過ぎ1時間ほどかかって横川駅に到着する頃には辺りはすっかり日が落ちていた。タクシー運転手が熱心に勧めてくれた「峠の湯」には、残念ながら行く時間が無かった。

今回の歩行ルートではなかったこの日の「めがね橋」と「アプトの廃線跡」と、あとで述べる深谷宿まで残り5kmほどの茶店「まるや」さんでの休憩時間が、今回の中山道歩きではもっとも印象に残った。
この日は横川駅から30分先の高崎までJRに乗り高崎で一泊。夕飯は横川駅前で買って持ち歩いていた「峠の釜飯」で、アプト廃線跡の途中で食べた。何度食べても中味はたっぷり、ご機嫌な弁当だ。


2日目914日(金)
昨夜の宿は、飲食店が軒を連ねる小さなビルで、3階から上がホテルになっていた。
高崎の町を国道17号線とほぼ平行して北にまっすぐ歩き上信電鉄の踏み切りを越える。
高崎宿から倉賀野宿までは、約6kmほど、これから東京日本橋までの中山道は、車の行きかうこのような市中の舗装された道路が続くのだろう。この辺りは中山道の案内標識が次々に表われ旅行者には優しい。標識を見ると正しい道を歩いていることが確認できてほっとする。
ここまで歩いてきた道すがらにおいても、しばらく標識にお目にかからない時に、道を間違っていることが何度かあった。

「新後閑町(シゴカマチ)」の信号を越える。
「たかべん・高崎弁当株式会社」と3,4階建ての低くて長いビルの屋上の横断的に書かれた会社の前を過ぎる。「真っ赤なだるまさん」が弁当を食べているマークが面白い。
「倉賀野宿1,3km」の縦標識の前を過ぎる。「七佛薬師如来・安楽寺」に差し掛かる。ここで休憩ではないが寸時立ち寄って写真を撮る。「倉賀野神社」の案内矢印を電柱に見たが、少し距離がありそうなのと、先程から空腹感が強くなってきているので、そのまま真っ直ぐ歩くことにした。
さて、多分倉賀野宿に入ったのだろう。
倉賀野郵便局が通りに面して建っていた。早速、例により1,000円貯金。ここで休憩も兼ねる。よほど疲れた顔をしていたのだろうか、職員の方から(お~いお茶)のボトルを頂いた。街道沿いの郵便局に何十回も立ち寄ってきたが、お茶のサービスを受けたのは今回が初めて。勿論渇いた喉には冷たいお茶は大変ありがたかった。

「上町(カミチョウ)」の信号を見る。「中町」「下町」の信号もあった。当然読み方は「ナカチョウ」「シモチョウ」。しばらくするとV字に分かれた追分に出る。「従是右江戸道左日光道」と人の背丈ほどの高さの石柱に彫りこまれている。説明看板には「中山道は倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる(以下略)」と読める。この分かれ道には道しるべの他に、常夜灯と閻魔道がある。日光例幣使街道はここから始まるということだ。

「新柳瀬橋北」の信号、「左玉村、右藤岡⑬」「岩鼻」の信号を次々に過ぎると、先ほど立ち寄った郵便局員さんに聞いた蕎麦屋さん「梅田屋」が現れた。暖簾に木造の蕎麦屋さんをイメージしていたが、真っ白のモルタリ貼りの建物、中に入ると大勢のお客さん、こんなお店は大抵外れが無い。好物の「おろし蕎麦」を注文。期待通り頭の芯にくるほどの辛み大根の辛さ。蕎麦はご機嫌だったが帰り際に聞いた「200メートルほど先の烏川の橋を越えれば埼玉県ですよ」は、どう考えても正しくない。埼玉県入りはずっと先の橋を越えてからだった。

国道17号に合流すると「本庄10km 熊谷31km 東京98km」の標識が目に入った。最終目的地までもう100kmを切ったのだ。「藤岡市立石」の標識のあとで「高崎市」の標識、しばらく行くと「藤岡市立石東」の標識。高崎市の一部が立石市の中にこの辺りで食い込んでいるのだろうか。

しばらくは国道17号を行く。「新町宿」に入ったようだ。「新町郵便局」が通りにあった。今回は郵便局によく出会う。

この辺りで次の本庄宿までは7km余。ゆっくり歩いても2時間の距離だ。
神流川に架かる長い橋に差し掛かる。天正10年信長が本能寺で倒れた時、滝川一蓋と言う人があだ討ちのため京に向う途中、北条氏にここで討ち取られたと言う古事を書き記した説明板と縦長の大きな石碑がある。

新町宿では道を間違った。
200mほど戻って正道に返る。「かんなかわはし」と袂に書かれた橋を渡る。「金窪之郷 八幡神社」で10分間の小休止。其処から先にK’s電気のお店があったので手洗いを借りに入る。冷房の効いた建物に入るとすっとするが、外に出るのがいやになる。「中山道新町宿」と彫られた黒っぽい石柱が道路際にあった。街道の説明本にあった神社の前には狛犬(獅子?)の横に「本庄新八景 本庄まつりと金讃神社」の石柱。境内には樹齢350年のクスノキ。

本庄市中央3丁目の信号を過ぎ「本庄駅入口」の信号を右折して目の前に迫ってきた本庄駅には、もう灯りがともっていた。時計は午後552分を指していた。今夜の宿泊「埼玉グランドホテル」は駅に隣接していた。

3日目915日(土)

今日の予定は深谷宿までの10,5km。午後5時までに深谷駅に到着すれば良いので気持ちにはゆとりがあった。そのゆとりの所為かホテルのスタートは930分になった。
駅の南側から北側にエレベーターを利用して渡る。昨日右折した「本庄駅入口」の信号の角までは約500mほどだったろうか。右折して中山道入る。「本庄東中前」の信号を過ぎしばらく行った所で、東から西へ向う一人歩きの男性に会った。出身は九州だと話しておられた。

「日の出4丁目」の信号のある交差点を過ぎ「新泉橋」にかかる。下を流れる川の名は「元小山川」。
昨日は3つの宿を跨ぎ歩いたが今日は10km先の深谷宿だけを目指す。この10kmの間に3組の対向者に会った。2度目にあった人はまだ現役の働き盛りらしく、連休を利用して5日間の日程で京都を目指しているとのこと。今回の歩行予定には碓氷峠も含まれる。つい先日歩いてきた峠路を、これから歩かれるとは羨ましい気もする。
次に出会ったのは40歳代ぐらいの若い夫婦ウオーカーだった。
村を外れるとぱっと明るい畑道に出た。

「こやまがわ」と彫ってあるようだが判読し難い川に架かる「たけおかはし」を渡ったころから明るいオープンな畑道を歩くことになった。

しかしそれも束の間、また国道17号に入る。しかし少し歩くと「右中山道」の標識。少し迷ったが地元の人に確認。

国道を右に曲がり村道に入って200mほど歩くと「まるや」と書かれた看板のお店から「少し休んでいきませんか」と声がかかった。丁度ジュースベンダーも見えたのでここで飲み物を仕入れるためリュックを下ろしてショートブレイク、と思ったのだが、結果的には1時間近く休ませてもらうことになった。60数歳のご主人とあやちゃんという3歳のお孫さんとそのお母さん。あやちゃんは、おもちゃのマイクを持って一小節フルに歌ってくれた。あやちゃんの仕草に見とれていると、奥からもう一人お爺ちゃんが出てきて、家の横に置いてあった小さな車に乗って、さ!と走り去った。あやちゃんの97歳の祖々父であるという。97歳で車を運転して魚釣りに行かれたそうだ。「97歳で運転大丈夫なんですか?」失礼なことを聞いてしまった。
しかし驚いた。生きているだけでも大変なのに車を運転して魚釣りとは…。
この場を離れ難かったが先を急がねばならない。あやちゃんにさよならして再び東へ向う。

「産泰神社」を過ぎる。「普済寺入口」の看板、しかしお腹が減って仕方ない。コミュニティバス「岡谷西」というバス停を過ぎると2階建ての家の屋根と高さほどもある「そば処伊勢路」と書かれた大きな看板。ごく!と喉が鳴った瞬間「本日お休み」の文字。

空腹街道を情けない顔をして歩くこと20分、今度は間違いなくオープンしている「大興」という中華料理屋。ここで十二分に腹ごしらえをした。念のため店の人に中山道のルートを確かめて再び歩き出す。17号線に入る。「宿根」の交差点で再び17号線を出る。この辺りの中山道は国道と手をつないでつかず離れずの仲という感じ。

宿根総鎮守・瀧宮神社」を左に見て過ぎる。もう深谷の駅も近そうだ。右に曲がり踏切を渡った所に建つ「浄土宗清心寺」に立ち寄った。ここまで来れば時間にゆとりがある。
「清心寺」には平清盛の弟、武勇その名の優れた平薩摩守忠度のお墓がある。
清心寺からは深谷の駅はもう目と鼻の先だ。深谷は宿場らしき趣きは全く感じられない。宿名の書かれた標識も目に入らなかった。嘉永元年創業の蔵元、前橋藤三郎商店の「東白菊」の大きな煙突、いせや本店を過ぎた次の信号を右折すれば駅は目の前。JR深谷駅は東京駅(丸の内)をモチーフにしたレンガ模様の立派な建物。駅正面には「渋沢栄一」の大きな銅像。横のからくり時計にも渋沢栄一の名が冠されているそうだ。
今日はこの駅から東京経由で帰途につく。


平清盛の弟 平忠度の墓



 東京駅を彷彿させるJR深谷駅




異様な頂を持つ「妙義山」

鉄道唱歌十七に詠われている

「鉾か剣か鋸か獅子か猛虎か荒鷲か虚空に立てる
岩のさま石門たかく雲をつく」



 
広重:「高崎宿」


英泉:倉賀野宿
江戸期において倉賀野は水運の要所であったという

広重「新町宿」
画面右手の橋は温井川にかかる虚空蔵橋
と言われている


英泉(無款):本庄宿

英泉:「深谷宿」
旅籠が80軒を数え繁盛していたという


 

2012年6月21日木曜日

中山道第25日目「坂本~高崎」


中山道第25日目 「坂本~松井田~安中~高崎」
24614()16() 
所要時間 初日 午後45分坂本駅到着。直ちに駅前の「東京屋旅館」に荷物を解き隣接する「鉄道文化村」に入る。

1日目 坂本駅16:05到着。 この日は鉄道文化村見学のみ。  
2日目 坂本~松井田~安中 8時間50分 歩数31639 歩   
3日目 安中~板鼻~高崎  6時間10分 歩数23400
    
初日614日(木)
今回は7時間半の鉄道を乗り継ぎ、前回泊まった「APAホテル」横の軽井沢駅バス停からバスに乗り次ぎ、午後4時過ぎ横川駅に到着。50年ほど前ならバスに乗らずアプト式鉄道で横川まで行くことが出来たのであろうが、今はこの間はバスが運行している。
宿舎「東京屋」は駅の直ぐ近くであったので、そのまま直行してリュックだけ置きその足でとってかえして「鉄道文化村」に入った。(500円也)。内木戸のトロッコ列車に乗り場内一周する(400円也)。今日はこのあと旅館に入り寝るだけ。
新幹線を使って東京廻りで行っても初日は歩く時間がないので、それなら時間がかかっても交通費を絞って一日がかりでスタート地点まで行こうという算段だった。

第二日目515日(金)

朝、旅館「東京屋」前で記念撮影。
旅館の直ぐ北側(と思う)を中山道が通っている。東京屋のご夫妻に見送られて先ずは松井田宿方向に出発。明日は少し雲行きが怪しそうだが今日は晴天。
先ず『やのざわ橋』という町中の小さな橋を渡る。直ぐ右に見えたのは「おぎのや」の看板。釜飯の「おぎのや」。此処が本店だったのか。ロケイションはJR横川駅の真ん前。
踏切を渡り小さな川と畑を見下ろす。少し先に「百合若大臣の足痕石」。説明板の一部に「……後足をふんがいたのがこの石…」と書いてある。「ふんがいた」の意味はまたのちほど調べてみるつもり。「おやまざわそくどうきょう」を越え「安中市立臼井小学校」前に差し掛かる。「うすい」の文字が「臼井」となっているのに歴史の道程を感じる。
「茶屋本陣お西・お東」を通りどんどん歩き片側にガードレールのある坂道を登りだした時だった。何処から良く通る声が飛んできた。
「中山道を歩いておられるなら其処は違いますよ!」。
 右側の民家から70歳がらみの女性が出てきて「ここは皆さんよく間違われます」と言って、もと来た方を指差し「あのガードレールの隙間を行って下さい」。写真でもわかるように、こんなガードレールの隙間から左折するなどと言う発想は、多分10人居ても1人も判らないと思う。此処は帰宅後安中市役所に連絡して置いてあげよう。

ついでに言うと、今回は決定的な間違いを二人の男女から指摘され大いに助かった。もしこの二人の助言がなかったら取り返しのつかないロスを仕出かしていたと思う。

山に囲まれた村落に続く道を行く
「西松井田駅前」の信号に差しかかる前に「松井田城址」の標識看板を見る。(北条流の典型的な中世の山城として名高い)と説明されている。

新堀の信号を過ぎるとどうやら松井田宿に入ったようだ。
「松井田町商工会館」「郵便局」では1,000円貯金。総額はもう3万円を超えた。しばらく行くと先程教えてもらった「みなとや」が道から少し入りこんだ所にあった。無料休憩所と書かれおり、昼の定食500円。地元の人達も何人か食べにきている。お腹も一杯疲れも癒され、いざ出発した途端また郵便局があった。無い時は探し回ってもなかなかないものだが,あるとなれば続くものだ。また1,000円貯金をする。
「広重の中山道69次松井田のモデルの地」と木製の屋根型標識に書かれた文字が剥げて読みずらい。「西南の役碑」のこれまた読みずらい標識。

再び三度国道に出た。国道に沿って左下にそれらしき道が併行に走っている。中山道の旧道に違いないと目星をつけ階段があったので降りる。しばらく行き山道に差し掛かる手前で田畑仕事をしていた男性にはるか遠く後方から声をかけられた。
「中山道は真っ直ぐ行っちゃあだめですよ」
今日二度目の福の神の声。おかげで間違いを犯さずに済んだ。福の神に会ってしばらく歩くと東から西に向うご夫婦にお会いした。思えば此処しばらく東から西に中山道を歩く人に会っていなかったことに気付く。ご夫婦で五街道を踏破中で中山道が最後の街道だとのこと。横浜の住人で今のところは日帰りで歩かれているとのこと。
「磯貝雲峰旧宅跡」の標識も縦長屋根型でこれも字がかすれている。「村社日枝神社」を通る。「安中宿5,7km」「安中市立第2中学校」はグランドが広い。また見つけた。「安中原市郵便局」貯金貧乏をしてしまいそうだ。道中記で何度も呼んだ「安中原市天然記念物」の杉並木に差し掛かる。もともと70本ぐらいあったようだが今は十数本か。「石挽きそばうどん・いちよし」の縦看板。下校時になったのか学生さんが突如大勢姿を見せる。近くにあったのは「群馬県立安中総合学園高等学校」。
ここからしばらく歩くと「新島襄旧宅」の道しるべ。同志社大学の創始者新島襄の生まれは東京だが両親はこの地で住まわれたとのこと。188240歳の時、教え子を伴って中山道を歩きこの地までこられた。46歳の若さで世を去った新島襄は、旧宅を訪れてから6年後に逝かれた事になる。
古びた蔵、「サカウエ薬局」と看板の出ている古い家、今夜の宿「湯沢館」まではもう直ぐだ。長い橋を渡った所に佇む旅館にリュックを置いて車で500mほど戻り和風レストラン「もみじ」まで送ってもらう。実は今夜は夕食無しの泊まりだったのだ。

第三日目616日(土)
覚悟していたが台風4号の余波で今日は朝から雨。幸い風は今のところほとんどない。長い中山道歩きだ。雨もあれば雪もある。今日は昨日の約半分、10kmの道のりだ。
湯沢館は一回り齢の離れた姉妹で切り回しておられるようだ。暖かいおもてなしを受け、リュックサックの濡れるのを防ぐ為ビニール袋で覆いを作って頂いた。

雨の中、板鼻宿に向う。昨日道を逸れた中山道へ先ず戻る。宿場の外れらしき所を過ぎて国道に合流。どうやら今日は国道とつかず離れずの道中になるようだ。下野尻の信号を過ぎる。雨は降り続いているが幸い土砂降りとまではいかない。右手に「安中駅」が見えたので渡り難い横断歩道を小走りに渡る。念のため駅員さんに中山道の道筋を聞く。「左手が旧の国道です」といわれた道を進むと橋に差し掛かった。「一級河川碓氷川」と書かれている。どうやらこの川は宿屋の前を流れていた川の下流か。橋を渡りきったところにあざやかな「右中山道」の標識。こういう風に書いておいてくれればまったく安心。曲がり角の信号には「鷹之巣橋東」。

もう板鼻宿に入ったようだ。「板鼻宿本陣跡」の標識。本陣跡の敷地には「板鼻公民館」の建物が建っている。「横面には「皇女和宮宿泊の書院」という文字も読める。「山岡鉄舟書扁額」という文字も。「板鼻郵便局」を見つけたが残念、今日は土曜日だった。しかしATMは生きていたので貯金し、自分の手で通帳に「板鼻郵便局」と書き込んだ。
「高崎だるまあります」という大きな幟が二本。そうだ、此処では全国のだるまの70%を作っていると聞いた。「生そばエビスヤ」の看板を左手に過ぎれば再び国道に出る。この辺りで高崎宿にはあと5,6kmだ。「橋供養」と彫られた人の背よりも大きな石柱。この辺りの標識は木造、石造含めて文字が読み取り難い。古さの象徴か。「碓氷峠鉄道施設・世界遺産へ」の大きな看板が国道沿いに。これは多分デモンストレイション看板だろう。「八幡八幡宮」の鳥居を左手に見て国道をそのまま進む。国道に面した「大門屋」の前に人間の背より少し高い石造りの達磨の顔。諏訪大社で見た「元治の石仏」を思い出した。
「上豊岡町」の信号で国道18号と別れ左の旧道に入る。
「県指定史跡・上豊岡の茶屋本陣」の標識が眼に飛び込んでくる。親切丁寧な地元のボランティア女性の説明を受けて此処でたっぷり30分間の休憩を取らせてもらった。この建物は代々所有してきた飯野家から平成9年に市が買い取って一般公開しているという。此処で出前外注して食事も出来ることはあとになって知った。
この建物の斜め向いに「だるま工房松本商店」。少し行けば「高崎市立豊岡中学校」。「達磨製造販売DARUMA」と壁に書かれた文字も見える。雨は強くはないが間断なく降り続く。左手に「中国料理四川」の看板を見たので迷うことなくここでお昼をとることにした。
此処で高崎宿まであと約1,5km。雨はそれほど苦にならないがカメラを濡らさぬようガードするのに一苦労する。どうしても雨の日はシャッターを押す回数が少なくなりがちだ。
「本町一丁目」と書かれた交差点辺りからどうやら中山道を踏み外したようだ。この近くに縦長の道路標識があって「高崎宿⇔中山道」と読めるが、矢印の方向が道路と併行になっていないのでどちらの道が正解なのか判断できない。結果的にこの道標を読み取れなかったのが原因で今日の終着点である高崎駅まで回り道をしたようだ。「覚法寺」「高崎市立中央図書館」前を通り雨の高崎駅にそれでも予定より早く到達した。
此処まで来ると中山道というイメージとは程遠い。都会のど真ん中に居る感じ。

今回は、実質二日間延べ歩行時間15時間、55039歩であった。

坂本宿 渓斎英泉
東から来ればここから難所【碓氷峠】西から
来れば碓氷峠を越えてほっとする宿場が
坂本宿



松井田宿 歌川広重
奇山妙義山への登山口があったといわれる
遠くの山は妙義山といわれている



安中宿 歌川広重
板倉家3万石の城下町であった。
図は大名行列か




板鼻宿 渓斎英泉
珍しい雪景色

高崎宿 歌川広重
画面中央の川は碓氷川と鳥川の合流地点。右の
土手は高崎城といわれている


日本橋まで残り100kmを割った。もう直ぐだという感覚よりも、もう少ししか歩けない、一歩一歩を大切に、という思いのほうが強い。


2012年6月4日月曜日

中山道第24日目追分~坂本


中山道第24日目 「追分~沓掛~軽井沢~坂本」
24516()18() 
所要時間 初日 小田井宿(御代田駅)から追分宿まで歩く。このルートは前回歩いたが見事に道を間違えた。今日再度この宿間の中山道を歩いた。

1日目 御代田駅~追分   2時間50分 歩数16579 歩
2日目 追分~沓掛~軽井沢  5時間40分 歩数26162 歩   

3日目 軽井沢~坂本                  7時間56分 歩数32434
    
初日516日(水)
今回のスタートは、前回(昨年1210)見事に道を間違えた小田井宿~追分宿間の正しい中山道を歩くことであった。
御代田駅には151分に着いた。前回親切な大海さんに車で送って頂いた駅である。あの日はまだ雪も道端に残っていた時節であったが、5ヶ月の間、寒さの通り過ぎるのを我慢して待った。そして今日、このあたりもすっかり春の気配であった。
御代田駅のプラットホームに立看板有り「標高820,43m」とある。今回歩く碓氷峠は標高1200mと聞いており今回のルートが中山道でも最も標高が高く、かつ、もっとも北にある。
ここから400m近く登ることになるんだなあと思いながらこの駅看板を見ていた。
今夜泊まる追分宿まではゆっくり歩いても2時間もあれば充分だ。ゆったりした気分で歩き出すと直ぐに郵便局があった。久し振りの中山道貯金千円也。
直ぐ目の前に「御代田町交通記念館」と書かれて蒸気機関車「D51-787」が展示されてある。
前回間違えた追分宿への中山道を今度は間違えないように歩く。道は追分宿までゆったりした上り坂であった。それにしても前回は何処でどう間違えたのだろう。わかっていることは一度御代田駅まで来て居れば良かったと言うことだ。
昨年12月、まだ雪の残るこの道を大海さんに車で案内して頂いた。あのときの枝垂れ桜の大樹を左に見つつ緩やかな上り坂を歩く。確かにこの道を逆に車で降りてきた。「千ヶ滝湯川用水温水路」を通り過ぎる。道路際に残雪を見たあの頃と違い今日は八重桜が満開だ。緩いのぼり道の両側には軽井沢らしい建物が並ぶ。「平岡篤頼文庫」と書かれた道標を過ぎる。あとで調べればこの人は大阪市出身の仏文学者。「森羅亭万象歌碑」に隣接して中山道のこのルートに必ず登場する「分去(わかされ)れの碑」。前回は雪が残っていたが今この辺りは桜の季節。ここは中山道と北国街道の分岐点だ。
大きな櫓の上に「追分宿」の看板。ここから堀辰雄文学記念館までは中山道らしい歴史を感じさせてくれる道だが、今日は生憎道路工事で愉快な道ではない。「追分公民館」「高札場」「明治天皇追分行在所」に続き、大きな敷地のお宿「油屋」が道路の左側にある。ここから直ぐの道路右側にあるのが「掘辰雄文学記念館」。残念ながら閉館時間を過ぎていたので門構えを見るだけだった。しばらく先に行くと「浅間神社」。その境内に芭蕉句碑があった。「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」。「追分公園」を過ぎ「標高1003m」の標識を見る。下部には英語で「Above Sea Level」と書かれている。今夜の宿泊所である「あさぎり荘・150m」の看板を見た。ところが200m歩いても見当たらない。園児を迎えに行ったお母さんらしき人に尋ねてやっとわかった。先ほど見た看板の意味は、どうやら「曲がり角までが150m」の意味らしい。
こざっぱりした清潔感のある民宿であった。ただこの建物の立地では、我々のような中山道を歩く人間か鉄道や山林の保全関係者以外にはどんな人が泊まるのだろうかと余計なことを考える。
この日は距離も歩行時間も少なく殆んど疲労感も無くゆったりした夜を送り明日に備えた。

第二日目517日(木)
朝、民宿「あさぎり」前で記念撮影。
穏やかでいかにも中山道といった風情の道を歩く。「借宿」という地を過ぎると「女街道入口」の標識。「入り鉄砲に出女」が厳重に取り締まられていた時代に、表道を避けて利用した裏道らしい。「馬頭観音」の大きな石柱、「ゆうすげ温泉」の広告看板、「古宿公民館」の建物、道端に「中山道沓掛宿」の石柱。ここで再び記念写真。「長倉神社」では神前結婚式でもあったのだろうか、花嫁さんの姿が垣間見える。「軽井沢町役場」を過ぎると、また「馬頭観音」の古い石柱。「軽井沢中学校」を過ぎ「市村記念館」の先で軽井沢駅に通じる国道18号線と、左に進む「旧軽井沢方面」へのやや細い道への分岐に差し掛かる。今夜の宿は右の国道18号の方角だが中山道は左。軽井沢らしき建物が現れてきた。軽井沢の町へ入る少し手前の公園で「貸し自転車500円」の看板を見つけたので、借りるべく交渉したが、500円は駐車料であって貸し自転車は1000円だという。
こちらが看板の解釈を間違ったのかもしれないが、釈然としないのでキャンセルしてそのまま歩いて先へ進む。このキャンセルが結果的には実に幸運であったことをこの時点では知るすべも無かった。腹が減って来た。お昼はとっくに過ぎている。「武田そば風林茶家」という蕎麦屋さんを見つけたので勇んで入る。この地へ来て蕎麦を食べない手はないだろう。私はいつものように冷たいおろし蕎麦を注文した。ここから今夜の宿「APAホテル」までは30分の距離。着いたのは午後3時少し前であった。チェックインを済ませ荷物を部屋において外に出れば、ホテルと隣接するように貸し自転車屋さん。「APAホテル宿泊者は終日100円」と書いてある。ここだと返却するのも楽だ。先程のキャンセルは実に幸運だったことがここでわかった。
ここから中山道を歩いて以来始めての楽しい3時間がスタートした。
颯爽と自転車に跨って軽井沢の町を遊覧、と自分では思っているが、周囲から見ればなんと汚い年寄りが危なげに自転車に乗っている、としか見えないだろう。
軽井沢銀座に向い、「コーユ倶楽部軽井沢サロン」「諏訪神社」「御宿つるや」「茜屋珈琲店」「土屋写真店」、少し通りを逸れると今の天皇が美智子妃殿下を知り染めたテニスコート。そして「万平ホテル」でお茶にした。先程入った土屋写真展に飾ってあった数多くの天皇ご夫妻の写真は、お二人の一生を綴った写真とも言えるほど充実していた。ご結婚以来半世紀以上のアルバムともいえるお二人の姿を見ることが出来た。聞くところによると天皇ご夫妻は、金婚式を過ぎた現在もなおこのコートに来られプレーを楽しんでおられるとのこと。自転車回遊の最後に行ったのはかって私が務めていた会社の寮、最近では利用者が少なくて少し寂れている風に見える。
今日は疲れも吹っ飛び楽しい一日だった。

第三日目518日(金)
さあ、今日は中山道では多分最後になる峠「碓氷峠」越えだ。和田峠の苦労を思い出す。あの真っ暗闇の中で、轟音を轟かせて目の前を突っ走る20頓クラスのトラックを避けて歩いた恐ろしい経験が頭を過ぎる。
しかしこの碓氷峠は、山の中の地道のいかにも峠らしい道だ。東から来る人には厳しいが、西から東へ向う旅人には少しやさしいと聞いていた。それでも11キロの山道の3分の一は登り道だ。
下りは大き目の石がごろごろする細い下り傾斜。東からの人には確かに厳しい道だ。しかも7kmほどのだらだら登り。足元が不安定で歩き難いだろう。一年以上前に街道ですれ違った東京から歩いてきた人が「和田峠よりも碓氷峠の方が私にはきつかった」と、言っておられたがその通りだろうと思った。「峠の茶屋13,1km・碓氷峠(県境)2,9km」の標識の横には「野生動物(クマ)生息地域」の標識。この標識は峠道のいたるところでお目にかかる。小さな橋を越えると「見晴台」が近づいてきた。あと1,3kmだ。この見晴台辺りが長野県と群馬県の県境になっている。ここでお昼の休憩。見晴台の広場には30名ほどの人。こんなに大勢の人が中山道を歩いていたのかと驚いたが、あとでわかったことだが、皆さんは車でこの広場に来られた人ばかりだった。この峠の頂上までの車道が別にあったのだ。「力餅そば・みすずや」で、温かいおろし蕎麦と力餅を食べる。おろし蕎麦を注文するなら冷たい蕎麦にするべきだった。暖かいおろし蕎麦は私には美味くなかった。これは私のミス。ただしお餅は美味かった。
この辺りから「安政遠足」のポスターや看板がやたら目に付く。5日前の日曜日に、この峠頂上をゴール地点にした「マラソン大会」があったという。書物に出てくる碓氷峠頂上の「熊野神社」には先を急ぐので外からのお参りで済ませた。さて、あとは数キロの下り道だ。「思婦石(おもふいし)」の屋根型看板には「ありし代にかへりみしてふ碓氷山 今も恋しき吾妻路のそら」。    
さて、あとはいかにもここが中山道ですと言うに相応しい細くて歩き辛い山道。屋根型看板には「長坂道:中山道をしのぶ古い道である」と書かれてあった。途中、道を遮るように水の流れる澤に出会う。同僚が足を滑らせて水に片足を踏み入れてしまった。濡れた石は滑りやすいので要注意。少し汚れた屋根型看板に「陣場が原」と書かれ、「太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある云々」の文字が読める。こんな厳しい山の中で戦わなくてもいいのにと思うのは、太平のおとし子の寝言か。しばらく下ると道の右手の小高い所にバスの残骸が置いてある。実はここからしばらく下りた所にも乗用車の残骸があった。この2台はどうしてここまで来られたのだろう。ここで組み立てられて朽ち果ててしまったのだろうか?まさか!

この辺り屋根型看板が多く見られる。まごめ坂を説明する「入道くぼ」。明治時代、見回り方屯所があったという「栗が原」。「一里塚」の看板。「北向馬頭観世音」「南向馬頭観世音」さらに天正時代敵を防ぐため、故意に道を狭めたと言われる「掘り切り」の看板。「碓氷坂の関所跡」屋根型看板などを、次々に見ているうちに足もとがお留守にならないように注意。ただしこの坂を登る人には立ち止まって小休止する格好のきっかけになるだろう。「坂本宿2,5km 熊野神社6,4km」の標識を見る。(これだけ歩いても、坂本まではまだ2,5kmもあるのか)と言うのがこの時の正直な気持ち。「四軒茶屋跡」「刎石茶屋跡」のあと「弘法の井戸」に差し掛かる。弘法大師の指示通りここを掘れば水が湧き出てきたという。「風穴」の屋根型看板を過ぎれば、またまた「馬頭観音」の石柱。「覗」「刎石坂」「柱状節理」「堂峰番所」と次々に表われる屋根型看板。その間に挟まって「安政遠足:ゴールへ7,5km」「侍マラソン」の標識。こんな上り一辺倒の坂道を二里近くも走ったの?調べてみると遠足は(とおあし)と読み、毎年5月の第2日曜日に仮装したランナーが参加するという「とお足」大会のようだ。「中部北陸自然歩道」の縦長標識がこの峠道の終点であった。
「中山道坂本宿」の大きな縦長標識で小休止。あとは横川の駅へ向って歩くだけだ。
「俵屋」「つたや」「米屋」などの文字が入口に貼り付けてある家々、「松井田町坂本」の信号を過ぎれば「みよがや脇本陣」「佐藤本陣跡」さらに「坂本小学校発祥の地」の石柱、この坂本宿は静かな佇まいの田舎町といった感じ。横川駅への舗装された道路に入ると右前方に不思議な形をした山が真っ先に眼に入った。あとで知ったが鉄道唱歌の第4集の17に、この山の姿を読んだと思われる一節がある。
『鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門たかく雲をつく』。
高い山とはいえないが奇妙な形のその山を上手く言い表していると思う。その姿をビデオには収めたが残念ながら写真に撮るのを忘れた。「薬師坂」と彫られた石柱を過ぎるといよいよ横川駅が近づいてきた。「アプトの道」と書かれた矢印標識、「碓氷関所跡」「招魂碑」「峠路探訪ウオーキングトレイル・アプトの道」の大きな標識。私の年代以上の人のほとんどは、このアプト式鉄道のことをよく知っている。駅前に機関車などが展示されていたが今日は時間が無いので次回にゆっくり見学することにした。

駅に到着後真っ先に探したのは楽しみにしていた「釜飯弁当」。しかし「先程売リ切れました」とすげない売店のおばさんの声。
今日はこの駅から帰路に着くので、列車の発車時間が気掛かりであったが、予定時間には半時間以上の余裕があったので、結果的には一台早い電車に乗ることが出来た。
ところで横川駅で逃した『釜飯』は、高崎からの特急列車の車内販売で買うことが出来たのでご機嫌な列車内での夕飯となった。



追分宿 渓斎英泉

北側に浅間山が見える。北国街道との分かれ道
になっているためにこの宿名になっている。この
宿は中山道の中でも最も標高の高い位置にある
堀辰雄の文学記念館もある。




沓掛宿 渓斎英泉

浅間おろしの吹きすさぶ中旅人は難渋しているようだ
左の川は湯川といわれている







軽井沢宿 歌川広重

東へ向う旅人は碓氷峠を控え、西への人は
峠を越えてヤレヤレという地。
昔は荒涼とした寒村であったらしい

坂本宿 渓斎英泉

碓氷峠の東側にあり峠の釜飯で有名
碓氷関は取締りが厳しかったと言われている