妙義山の奇怪な頂 |
中山道第26日目 「めがね橋・アプトの廃線」と「高崎~倉賀野~新町~本庄」「本庄~深谷」
24・9・13(木)~15(土)
所要時間 初日 午後4時5分坂本駅到着。直ちに駅前の構内タクシーで「めがね橋」に向う。
1日目 坂本駅16:05到着・初日は「めがね橋」「アプトの廃線跡」
2日目 高崎~倉賀野~新町~本庄 8時間50分 歩数42286 歩
3日目 本庄~深谷 6時間5分 歩数24053 歩
2年半かけて手抜き(足抜き?)無しで歩いてきた400km余。目的の日本橋までの残りは約100kmほどだろうか。
これから先は、国道をも交えてほとんど市街地になるようだ。きびしい峠の登り下りも苦しかったが、車の行き交う舗装道路のほうが変化に乏しく、むしろよりいっそう疲れを感じるだろう。
今回も2泊3日のスケヂュール。初日は前回行けなかった「アプトの鉄道跡」と「めがね橋」。この日の内に高崎まで行き一泊。2日目は高崎宿から倉賀野宿、新町宿を経て本庄の宿までの19,5km。3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7kmを歩いた。
2日目は9:45にプラザホテルスタート。いつもの事ながら予定していた時間より今日も遅れる。しかし何のことはないこのホテルはまさに中山道に建っていたのだ。倉賀野宿までは5,9km。倉賀野郵便局が街道沿いに建っていたので例によって1,000円貯金。ここで「お~いお茶」のボトルの差し入れを受ける。中山道で39番目に入った郵便局だったがお茶のサービスを受けたのはこれが初めて。
倉賀野宿では中山道と日光例弊使街道の分岐点があった。左へ行けば日光坊中へ右へ行けば中山道。国道1号線、8号、21号、今まで国道と仲良くしてきたが、この辺りに来ると国道17号と添いつ離れつして歩く。本庄宿の7km手前に「神流川」がある。滝川一蓋という人が北条氏に討ち取られた場所と説明板にあった。国道の看板には「東京まで98km」と書かれていた。もう100kmをきったのだ。
何度も言うようだがこれから先は市中の舗装道路を歩くことになるのだろう。あの和田峠の長い峠路で靴擦れに苦しみながら歩いた辛さや、1m先の足元をを大型トラックが猛スピードで走る真っ暗な夜の国道の恐怖。石畳の琵琶峠、1mも無い細い崖道の碓氷峠などなどが懐かしく思い出される。それらの悪路と比べればこのあたりは極楽だ。が、舗装道路というのは歩きやすいが単調で変化が無い。
3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7km。
この日は10km余の道中で3組の中山道歩行者に遭った。
男性単独行二人と40歳台ぐらいの夫婦者。
終着の深谷駅まで残り5kmほどの村の「まるや」というお店で1時間ほど時間を使った。最初は店の前にある飲み物ベンダーが目的だったがこの屋の孫娘3歳の「あやちゃん」の可愛らしさについつい長居してしまった。これも旅の楽しさの一つだ。時間に余裕があったのも良かった。
さて今回、初日は前回(6月14日)と全く同じ時間、同じルートで9月13日(木)午後4時5分に軽井沢駅からバスに乗り継いでJR横川駅 に到着。駅前の釜飯販売店でそばを食べていたタクシー運転手の食べ終わるのを待って、直ぐ「めがね橋」に向う。この橋は正式には「碓氷第3橋梁」と言い、4連アーチのレンガ作りで、全長91m、高さ31メートル、使用されているレンガは約200万個という。横川駅の方からアプトの廃線跡を登ってきた人は、この橋の上で「めがね橋って何処?」と訊く人もいるという。橋へ登る袂の坂道は急だった。こんな山の中にかかわらず多くの見物客の姿があった。昭和38年頃まではこの橋の上を蒸気機関車が走っていたという。
今回も2泊3日のスケヂュール。初日は前回行けなかった「アプトの鉄道跡」と「めがね橋」。この日の内に高崎まで行き一泊。2日目は高崎宿から倉賀野宿、新町宿を経て本庄の宿までの19,5km。3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7kmを歩いた。
2日目は9:45にプラザホテルスタート。いつもの事ながら予定していた時間より今日も遅れる。しかし何のことはないこのホテルはまさに中山道に建っていたのだ。倉賀野宿までは5,9km。倉賀野郵便局が街道沿いに建っていたので例によって1,000円貯金。ここで「お~いお茶」のボトルの差し入れを受ける。中山道で39番目に入った郵便局だったがお茶のサービスを受けたのはこれが初めて。
倉賀野宿では中山道と日光例弊使街道の分岐点があった。左へ行けば日光坊中へ右へ行けば中山道。国道1号線、8号、21号、今まで国道と仲良くしてきたが、この辺りに来ると国道17号と添いつ離れつして歩く。本庄宿の7km手前に「神流川」がある。滝川一蓋という人が北条氏に討ち取られた場所と説明板にあった。国道の看板には「東京まで98km」と書かれていた。もう100kmをきったのだ。
何度も言うようだがこれから先は市中の舗装道路を歩くことになるのだろう。あの和田峠の長い峠路で靴擦れに苦しみながら歩いた辛さや、1m先の足元をを大型トラックが猛スピードで走る真っ暗な夜の国道の恐怖。石畳の琵琶峠、1mも無い細い崖道の碓氷峠などなどが懐かしく思い出される。それらの悪路と比べればこのあたりは極楽だ。が、舗装道路というのは歩きやすいが単調で変化が無い。
3日目は本庄宿から深谷宿までの10,7km。
この日は10km余の道中で3組の中山道歩行者に遭った。
男性単独行二人と40歳台ぐらいの夫婦者。
終着の深谷駅まで残り5kmほどの村の「まるや」というお店で1時間ほど時間を使った。最初は店の前にある飲み物ベンダーが目的だったがこの屋の孫娘3歳の「あやちゃん」の可愛らしさについつい長居してしまった。これも旅の楽しさの一つだ。時間に余裕があったのも良かった。
さて今回、初日は前回(6月14日)と全く同じ時間、同じルートで9月13日(木)午後4時5分に軽井沢駅からバスに乗り継いでJR
帰途は徒歩で先程タクシーを拾った横川駅までの4kmを、5つのトンネルをくぐってアプトの鉄道廃線跡を歩いて下る。廃線跡に興味を持っているので御機嫌だった。ここは宝塚から武田尾までの廃線跡と違って、来客ウエルカムの受け入れ姿勢が感じられ、廃線跡の線路道も舗装されて歩きやすい。レンガづくりの旧丸山変電所前を通り過ぎ1時間ほどかかって横川駅に到着する頃には辺りはすっかり日が落ちていた。タクシー運転手が熱心に勧めてくれた「峠の湯」には、残念ながら行く時間が無かった。
今回の歩行ルートではなかったこの日の「めがね橋」と「アプトの廃線跡」と、あとで述べる深谷宿まで残り5kmほどの茶店「まるや」さんでの休憩時間が、今回の中山道歩きではもっとも印象に残った。
2日目9月14日(金)
昨夜の宿は、飲食店が軒を連ねる小さなビルで、3階から上がホテルになっていた。
高崎の町を国道17号線とほぼ平行して北にまっすぐ歩き上信電鉄の踏み切りを越える。
高崎宿から倉賀野宿までは、約6kmほど、これから東京日本橋までの中山道は、車の行きかうこのような市中の舗装された道路が続くのだろう。この辺りは中山道の案内標識が次々に表われ旅行者には優しい。標識を見ると正しい道を歩いていることが確認できてほっとする。
ここまで歩いてきた道すがらにおいても、しばらく標識にお目にかからない時に、道を間違っていることが何度かあった。
「新後閑町(シゴカマチ)」の信号を越える。
「たかべん・高崎弁当株式会社」と3,4階建ての低くて長いビルの屋上の横断的に書かれた会社の前を過ぎる。「真っ赤なだるまさん」が弁当を食べているマークが面白い。
「倉賀野宿1,3km」の縦標識の前を過ぎる。「七佛薬師如来・安楽寺」に差し掛かる。ここで休憩ではないが寸時立ち寄って写真を撮る。「倉賀野神社」の案内矢印を電柱に見たが、少し距離がありそうなのと、先程から空腹感が強くなってきているので、そのまま真っ直ぐ歩くことにした。
さて、多分倉賀野宿に入ったのだろう。
倉賀野郵便局が通りに面して建っていた。早速、例により1,000円貯金。ここで休憩も兼ねる。よほど疲れた顔をしていたのだろうか、職員の方から(お~いお茶)のボトルを頂いた。街道沿いの郵便局に何十回も立ち寄ってきたが、お茶のサービスを受けたのは今回が初めて。勿論渇いた喉には冷たいお茶は大変ありがたかった。
「上町(カミチョウ)」の信号を見る。「中町」「下町」の信号もあった。当然読み方は「ナカチョウ」「シモチョウ」。しばらくするとV字に分かれた追分に出る。「従是右江戸道左日光道」と人の背丈ほどの高さの石柱に彫りこまれている。説明看板には「中山道は倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる(以下略)」と読める。この分かれ道には道しるべの他に、常夜灯と閻魔道がある。日光例幣使街道はここから始まるということだ。
「新柳瀬橋北」の信号、「左玉村、右藤岡⑬」「岩鼻」の信号を次々に過ぎると、先ほど立ち寄った郵便局員さんに聞いた蕎麦屋さん「梅田屋」が現れた。暖簾に木造の蕎麦屋さんをイメージしていたが、真っ白のモルタリ貼りの建物、中に入ると大勢のお客さん、こんなお店は大抵外れが無い。好物の「おろし蕎麦」を注文。期待通り頭の芯にくるほどの辛み大根の辛さ。蕎麦はご機嫌だったが帰り際に聞いた「200メートルほど先の烏川の橋を越えれば埼玉県ですよ」は、どう考えても正しくない。埼玉県入りはずっと先の橋を越えてからだった。
国道17号に合流すると「本庄10km 熊谷31km 東京98km」の標識が目に入った。最終目的地までもう100kmを切ったのだ。「藤岡市立石」の標識のあとで「高崎市」の標識、しばらく行くと「藤岡市立石東」の標識。高崎市の一部が立石市の中にこの辺りで食い込んでいるのだろうか。
しばらくは国道17号を行く。「新町宿」に入ったようだ。「新町郵便局」が通りにあった。今回は郵便局によく出会う。
この辺りで次の本庄宿までは7km余。ゆっくり歩いても2時間の距離だ。
神流川に架かる長い橋に差し掛かる。天正10年信長が本能寺で倒れた時、滝川一蓋と言う人があだ討ちのため京に向う途中、北条氏にここで討ち取られたと言う古事を書き記した説明板と縦長の大きな石碑がある。
200mほど戻って正道に返る。「かんなかわはし」と袂に書かれた橋を渡る。「金窪之郷 八幡神社」で10分間の小休止。其処から先にK’s電気のお店があったので手洗いを借りに入る。冷房の効いた建物に入るとすっとするが、外に出るのがいやになる。「中山道新町宿」と彫られた黒っぽい石柱が道路際にあった。街道の説明本にあった神社の前には狛犬(獅子?)の横に「本庄新八景 本庄まつりと金讃神社」の石柱。境内には樹齢350年のクスノキ。
本庄市中央3丁目の信号を過ぎ「本庄駅入口」の信号を右折して目の前に迫ってきた本庄駅には、もう灯りがともっていた。時計は午後5時52分を指していた。今夜の宿泊「埼玉グランドホテル」は駅に隣接していた。
3日目9月15日(土)
今日の予定は深谷宿までの10,5km。午後5時までに深谷駅に到着すれば良いので気持ちにはゆとりがあった。そのゆとりの所為かホテルのスタートは9時30分になった。
駅の南側から北側にエレベーターを利用して渡る。昨日右折した「本庄駅入口」の信号の角までは約500mほどだったろうか。右折して中山道入る。「本庄東中前」の信号を過ぎしばらく行った所で、東から西へ向う一人歩きの男性に会った。出身は九州だと話しておられた。
「日の出4丁目」の信号のある交差点を過ぎ「新泉橋」にかかる。下を流れる川の名は「元小山川」。
昨日は3つの宿を跨ぎ歩いたが今日は10km先の深谷宿だけを目指す。この10kmの間に3組の対向者に会った。2度目にあった人はまだ現役の働き盛りらしく、連休を利用して5日間の日程で京都を目指しているとのこと。今回の歩行予定には碓氷峠も含まれる。つい先日歩いてきた峠路を、これから歩かれるとは羨ましい気もする。
次に出会ったのは40歳代ぐらいの若い夫婦ウオーカーだった。
村を外れるとぱっと明るい畑道に出た。
「こやまがわ」と彫ってあるようだが判読し難い川に架かる「たけおかはし」を渡ったころから明るいオープンな畑道を歩くことになった。
国道を右に曲がり村道に入って200mほど歩くと「まるや」と書かれた看板のお店から「少し休んでいきませんか」と声がかかった。丁度ジュースベンダーも見えたのでここで飲み物を仕入れるためリュックを下ろしてショートブレイク、と思ったのだが、結果的には1時間近く休ませてもらうことになった。60数歳のご主人とあやちゃんという3歳のお孫さんとそのお母さん。あやちゃんは、おもちゃのマイクを持って一小節フルに歌ってくれた。あやちゃんの仕草に見とれていると、奥からもう一人お爺ちゃんが出てきて、家の横に置いてあった小さな車に乗って、さ!と走り去った。あやちゃんの97歳の祖々父であるという。97歳で車を運転して魚釣りに行かれたそうだ。「97歳で運転大丈夫なんですか?」失礼なことを聞いてしまった。
しかし驚いた。生きているだけでも大変なのに車を運転して魚釣りとは…。
この場を離れ難かったが先を急がねばならない。あやちゃんにさよならして再び東へ向う。
「産泰神社」を過ぎる。「普済寺入口」の看板、しかしお腹が減って仕方ない。コミュニティバス「岡谷西」というバス停を過ぎると2階建ての家の屋根と高さほどもある「そば処伊勢路」と書かれた大きな看板。ごく!と喉が鳴った瞬間「本日お休み」の文字。
空腹街道を情けない顔をして歩くこと20分、今度は間違いなくオープンしている「大興」という中華料理屋。ここで十二分に腹ごしらえをした。念のため店の人に中山道のルートを確かめて再び歩き出す。17号線に入る。「宿根」の交差点で再び17号線を出る。この辺りの中山道は国道と手をつないでつかず離れずの仲という感じ。
宿根総鎮守・瀧宮神社」を左に見て過ぎる。もう深谷の駅も近そうだ。右に曲がり踏切を渡った所に建つ「浄土宗清心寺」に立ち寄った。ここまで来れば時間にゆとりがある。
「清心寺」には平清盛の弟、武勇その名の優れた平薩摩守忠度のお墓がある。
清心寺からは深谷の駅はもう目と鼻の先だ。深谷は宿場らしき趣きは全く感じられない。宿名の書かれた標識も目に入らなかった。嘉永元年創業の蔵元、前橋藤三郎商店の「東白菊」の大きな煙突、いせや本店を過ぎた次の信号を右折すれば駅は目の前。JR深谷駅 は東京駅 (丸の内)をモチーフにしたレンガ模様の立派な建物。駅正面には「渋沢栄一」の大きな銅像。横のからくり時計にも渋沢栄一の名が冠されているそうだ。
異様な頂を持つ「妙義山」 鉄道唱歌十七に詠われている 「鉾か剣か鋸か獅子か猛虎か荒鷲か虚空に立てる 岩のさま石門たかく雲をつく」 |
広重:「高崎宿」 |
英泉:倉賀野宿 江戸期において倉賀野は水運の要所であったという |
広重「新町宿」 画面右手の橋は温井川にかかる虚空蔵橋 と言われている |
英泉(無款):本庄宿 |
英泉:「深谷宿」 旅籠が80軒を数え繁盛していたという |
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