2011年9月12日月曜日

中山道第21日目「薮原~奈良井~贄川~本山~洗馬~塩尻」23・9・6~7

中山道第21日目 
「薮原~奈良井~贄川~本山~洗馬~塩尻」   
                       2396()7() 

所要時間 初日     5時間30 歩数17,759
2日目    8時間5分  歩数40764
初日96日(火)

和宮がいない。気を付けて探すのだが何処にも居ない。中山道を歩いてこんなことは初めてだ。どこかで彼女はこちらを見ていたのだが、こちらが気付かなかったのか。和宮は鳥居峠を越えず他のルートを辿ったのだろうか。明治天皇の「御小休止処」は少なくとも2ヶ所はあった。
薮原から鳥居峠を越えて塩尻までの中山道街道沿いで、和宮関連の碑に一回もお目にかからなかった。

JR高架下をくぐる地下道が作られている


さあ、鳥居峠の登りだ

初日は11人、二日目は1人。中山道を旅して21回目になるが一日でこれだけの旅人と出会ったのは今回が初めて。3組の夫婦、一人旅の男性3人と女性2人。単独行男性3人の内1人はオーストリアから来た若い男性であった。鳥居峠の頂上を過ぎやれやれと思った時、街道の右側に比較的新しい小屋があった。ほっとして中に入って行った。男性1人、まさに大の字で仰向けに寝そべっていた。私が入って行った気配を察して起き上がった。

ご夫婦で経営されている。食事が美味しかった

若きオーストリアンと会った山小屋


この角を直角に右に曲がる
 I’m Sorry to disturb You」「(むにゃむにゃ)No,no 」「Are You also walking for Narai?」「Yes」「Where did you come from?」「Austria」「Australia?
No Austria」「Where is your terminal ?」「??……OhOhKyoto…」「Sanjyo?」
OhOh YesSanjyou

このオーストリアの若者は寝起きというだけではなく、会話や、人付き合いは余り得手ではないらしい。「May I take your picture?」とカメラを向けようとしたら顔を伏せて慌てて小屋を出て行った。
街道歩きで外国人と逢って話したのも今回が初めて。

また50歳ぐらいの一人歩きの女性2人に逢ったのも初めて。
まさに鳥居峠の頂上手前に来た時、この歩き難い下り坂を小走りに下りてきた女性。「青い小さな蛇を踏みそうになった」と顔色が変わっている。「マムシではない様だから心配ないですよ」「いや、私、蛇大嫌い」
この人も今朝奈良井宿を発ってきたという。女性で1人の中山道歩き。男性でも1人だと心細いのに。


  1日で4万歩を越えたのも初めて。奈良井から塩尻まで距離は22,2kmあったが比較的平坦だったので何とか歩きおおせた。初日は峠越え、二日目はほとんど舗装の長い道のり、変化に富んだ二日間であった。



さて620分に家を出てJR薮原駅に着いたのは午前1124分。本日最初に戸惑ったことは、宿場街への入り口に通行禁止の掲示があり、ギョ!っとしたが直ぐ横に「鳥居峠⇒」の掲示看板を発見。よく見れば人工のトンネル入り口。高架の下をくぐって向こう側に出る。こんな中山道ってあるのかな。

快晴,微風。湿気が少なく絶好のウオーキング日和。初日の今日の道程は距離こそ短いが(5,3km)その殆んどは峠道。「鳥居峠」だ。
なるほど宿場を抜けきらないうちに「右鳥居峠」の標示。早速峠の入り口、上り坂だ。その侵入道入り口角に地元の60歳ぐらいの女性2人。いろいろ道すがらのことなど親切に教えてくれたあとで「熊が出ますから注意してください」。(おどかさないで…)。早速用意してきた大きな鈴をリュックに結びつける。

上り坂とはいえ大木が覆いかぶさり日蔭が多くて暑さは随分凌げる。峠道にさしかかると、直ぐに東京方面から来た単独行の男性に会う。「木祖村史跡鳥居峠」「信濃十名所鳥居峠」地道の脇に次々に石碑が現れる。ここでまた160歳がらみの男性に会う。こんな山の中で人に会うとほっとする。お互いこれから歩いて行く未知の先を、相手にいろいろ聞きたいこともあり、また小休止のチャンスでもある。坂の頂上手前あたりでひとり、下り始めのあたりでひとり単独行の女性に会った。前者は先に蛇に追われた女性として書いた人だ。既に夫婦ウオーカーとも二組に出会っている。
そして、現れたのは「熊避けの鐘」(熊も人が怖いので鐘で知らせてあげよう)と書かれている。人に会うのはウエルカムだが熊は動物園以外では会いたくない。暫くの間、(熊って本当にこんな山道に出てくることもあるのだろうか)などと考えながら、もくもくと歩いていたら、いきなり(が~ん、が~ん)と鐘の音。少しだけギョ!として前方を見れば本日3度目の夫婦ペアーとの出会い。埼玉から出てこられてやはり同じように京都三条大橋を目指しているとのこと。「私たちを熊と間違ったのではないでしょうね」と出来の悪いジョークを言ったのがきっかけで暫く話し込む。年齢はやはり60歳前後か。この出会いのあと少し歩いた先の山小屋で冒頭に書いたオーストリアンにあった。

この山小屋から奈良井宿はもう目の前であった。「奈良井宿近道700メートル」という素人っぽい板切れが貼り付けてあった。こんなに素朴だと逆に充分信頼できる。が、近道を行かなくっても目的地はもう目の前なのでそのまま山を下る。奈良井宿の南の入り口には「鎮神社」の赤い鳥居が印象的だ。

この宿へ来るのは今回で3度目。数年前と、20年以上前に来ている。
今夜の宿はご夫婦だけで経営されていると聞いた「江島屋」さん。奈良井宿本通りのど真ん中に位置している。荷を解く前に江島屋さんの前を素通りして30分ほどこの宿の北の方まで散策した。郵便局を見つけた。午後4時を過ぎていたが、まだ器械は止めていなかったので例の中山道記念貯金は受け付けてもらえた。
大きなきれいなお風呂だった。間口の割には奥行きが広い。この辺りのお家の特徴なのか。
私の好きなアマゴの塩焼きの付いた夕飯は美味しかった。ご飯粒だけで食事が出来る私にはご飯の美味しいということは何より嬉しいことだ。

2日目9月7日(水)

今日も快晴。暑いと言っても我が住いと比べて暑さの内容が違う。湿気がない。夜はぐっすり眠られる。夜中に目覚めることはない。
昨夜も食事を美味しく頂いたが今朝も美味しかった。今日の道中、途中コンビニがあるとは聞いたが、万一、昼飯抜きもあるかと思いご飯はお茶碗3膳食べてしまった。記念写真のシャッターをご主人に切ってもらってさあ2日目のスタートだ。

軒並み並ぶ[漆器店]に無言で見送られて宿場の中を北へ進む。
宿場の北のはずれにJRの奈良井駅がある。
「笹良漆器会館」「天平堂」「石本漆器店」を過ぎ「23夜」の石碑と説明板を通り「道の駅きそならかわ」へちょっと立ち寄りトイレ休憩。「国重要文化財深沢家住宅」いつの間にやら「贄川宿」に入ったのだろうか。いやここは「木曽平沢」の村だ。

街中で本日ただ1人会った男性も三條大橋を目指している。中間点を過ぎいまや出会う人の行く終着地点より我々の終着点の方が近くなった。
「贄川郵便局」前を通ったので千円貯金。ここで案内してもらった「贄川関所」に立ち寄る。今日は22kmの長い道程なのでゆっくりする暇がない。心は焦る。遅くとも塩尻に18時までに着かなければ今日中に家に帰れない。残念だが関所には入らずに写真を写しただけで先へ進む。JR贄川の駅前に蕎麦屋さん。ああ残念。まだ腹時計は昼ではない。明治天皇の石碑。和宮はないが「明治天皇御小休所」の碑は何度かお目にかかる。暫く進むとまた国道。昨日のようにアップダウンはなくフラットな道が続くが、車の往来の激しい国道は歩き難い。「道祖神」の石碑、「一里塚」の看板。
「日出塩の青木」という看板があった。「貴人の塚の上に大檜があった。洗馬の肘松日出塩の青木 お江戸屏風の絵にござる」と書かれていた。

国道の右手山側の高い位置に「本山宿」の立派な標示を見る。宿は静かな佇まいを見せている。
先に通り過ぎた」「贄川宿」と、ここ「本山宿」には宿泊施設が一軒もない。それなりにまた静かな雰囲気だ。「本山そばの里」の大きな立て看板。その後方には蕎麦畑が広がっている。このあたりは蕎麦の本場。
きれいに咲きそろった道端のコスモスをバックに「本山宿」の看板。「明治天皇本山行在所跡」の大きな石碑。暫く行くと道祖神、庚申さん、字が読み難い石碑が10点以上並べられている。そろそろ[洗馬の宿]だ。中山道の宿場らしくない宿場だなあ、と思っていた矢先、あった。「脇本陣跡」につづいて「本陣跡」の立て札。だが民家の塀に貼り付けてあるだけ。「邂逅(あふた)の清水入り口」というボードが電信柱に貼り付けてある。

ポートランドという名前の葡萄
甘い甘い
                                                                 通りに面した小学校の前を通る。先ほどから道端に植えられたサルビアの赤い花が眼に焼きつく。「肘懸松」と書かれた看板。「肘懸松」とは赤松の名木であるらしい。暑い中、とにかく歩みを続ける。もくもくと歩く。昨日の峠道も厳しかったがフラットで単調な舗装道の方が精神的な疲れが大きい。
「塩尻の駅は?」と村の人に尋ねた時「あそこのぶどう園の角を右に」と聞いたのでぶどう園に立ち寄ることにした。ここまで来れば時間はほぼ読める。頑張ったおかげで時間は1時間以上余裕が出来ている筈だ。ポートランドという名のついた葡萄を試食。甘い。甘過ぎる。
相棒が一箱購入したのでサービスに2,3房頂いた。歩きながら食べる。甘い。美味しい。


モニュメントらしいものがないこの宿で
街道の味わいを辛うじて残す看板
  ただ掌がねとねとになってカメラのシャッターに触れられない。ある程度食べた所で葡萄は断念。
駅が近づいてきた。予定より1時間近く早く到着した。



 
初日は5,3kmの峠道。二日目は3つの宿を通り抜け22,2kmの長丁場を休憩も入れ、靴擦れの痛みを我慢し、時々痙攣の兆しにおびえながら8時間5分で踏破した。




さあ、次回は中山道の最大の難所、10kmの登り坂、10kmの下り坂、休む場所もないと聞いている「和田峠」だ。ウオーミングアップのため、プール歩行で少しトレーニングをしておこう。


(右) 塩尻駅の傍の壁に大きく描かれていた塩尻の観光広告。
薮原宿 英泉は鳥居峠を描いている 





峠でやすらう2人の旅人と小木曽女が雪を被った御嶽山
を眺めている。

後方は芭蕉句碑
「雲雀より上にやすらう峠かな」(はせお芭蕉)  
この碑は現存している。

左に見える泉水は木曽義仲がその水で願い文を書いた「硯の清水」


奈良井宿 渓斎英泉
 




栄泉は鳥居峠の峠にあった茶店を土地の名産「お六ぐし」のお店に見立てて描いたようだ





贄川宿 歌川広重







   




洗馬宿 歌川広重







本山宿 歌川広重





塩尻宿 渓斎英泉

                                                                      

2011年9月3日土曜日

中山道第20日目「上松~福島~宮ノ越~薮原」 23・7・9~10

    

 中山道第20日目上松~福島~宮ノ越~薮原」(23・7・9~10

7月9日(土) 


上ヶ松 (広重)
現在の上松宿の南のほうにある「小野の滝」を描いている。
旅人が渡っている橋は今国道になっている。

風邪がまだ完全に回復していない。一昨日には、「明後日は延期した方がいいだろうか?」と思った。でも弱気もいけないので決行することにした。















前回と違って今回は快晴。雨は困るが快晴というのもこの時期ではまだ曇りの方がいい。
今回は初日が少し辛かった。
しかし2日間とも道程はほぼフラット、19号線沿いの嫌な道も少しあったが、きつい上り坂が殆どなかったので助かった。


印象的な「檜の大木」のオブジェが鎮座する上松駅。「おおさわ」という上松駅前のス‐パ‐で、同行のN君はお稲荷を、私は葡萄パンを仕込んでからスタート。

最初のチェックポイントは「木曽の桟」だったがこれは結果的には見ることが出来なかった。19号線を素直に歩いていたら見られたのだが、わざわざまわり道になる木曽川の反対側を歩いたので見ることは出来なかった。木曽の桟は対岸から見る方が良いと、なにかの本に書いてあったのにー。

山道から出たところでこの
雄大な景色は印象的だった

橋梁工事の現場をすり抜けて舗装路を歩く。ここは国道のバイパス的に使われている道のようで時々ではあるが結構スピードを出して車が走り抜ける。昼ごはんを食べる場所を模索しながら歩くのだが、こんな道路から抜け出さない限り食事できるような場所がない。しかし、まさに背に腹は変えられず舗装道路の川へ下りる階段で腰を下ろす。なんとも表現し辛い場所であった。
しばらく行くと道の駅があった。
10号線に建つ「道の駅」から頭を雲間に隠した雄大な御嶽山が垣間見えた。
この辺りまで来れば木曽川も川幅が大分狭くなってくる。100mぐらいの川の中ほどで魚を釣っている男性の姿が見える。村の中に「一里塚の跡」の石碑を見つけた。(京へ六十七里、江戸へ七十里)と彫ってある。
木曽町に入る手前「塩渕」という信号を過ぎた。
木曽福島駅へは予定より早く着いた。もう20年になるだろうか。前述した信濃大町に住む友人夫妻とこの駅前で待ち合わせ、車にピックアップしてもらって、ここを出発点としてあちこち旅行した。その時のことを懐かしく思い出す。

宿泊する「むらち屋」は駅から数百メートルの所。入り口がくぐり戸になっている。腰をかがめて入る。今夜の夕食の予約はないので、早速待望の蕎麦屋「車屋」へ。しかし残念!売り切れ閉店。とりあえず耳にした「足湯」へ向う。もう一軒あるという蕎麦屋さんの所在を確認して先ほど歩いてきた「塩淵」交差点近くへ戻る。こうなれば少々遠くても初心貫徹。何としても蕎麦が食べたい。しかし、ここも売り切れで本日終了。仕方なく喫茶店のようなお店に入り何とか夕食を済ます。今夜はぐっすり寝れるだろうか。

710日(日)

この辺りは我がコミュニティ近辺と違い大分気温が低いのか、夜はクーラーなし、窓は締め切っていても暑くない。ぐっすり熟睡出来た。朝食をゆっくり平らげて宿の主人にシャッターを押してもらい第2日目をスタート。

宿から北へ広がる福島宿はさすが大きな宿場であった名残が多く見られる。小さな水車の横には「歩いて楽しむ町福島」「ここはウエンダです」の表示看板。古びた建物の「まつり会館」。高札場を過ぎると本陣跡。その場所に今は市の別館「木曽町木曽福島支所」が建っている。

宿を抜けると「高瀬資料館」があり、「高瀬奇応丸」の石碑。その辺りから細い道が上り坂になっており登りきった所に有名な「木曽福島の関所跡」の2メートルほどの大きな石碑。
ここは国の史跡になっている。時間があればこんな所でゆっくり見物したいが先を急ぐ。「出女に入り鉄砲」の取締りがここで厳しく行われたのだろう。
経路は再び国道19号に合流。しばらく行くと「手習い天神」。
木曽義仲が小さい時に師匠の中原兼遠に学問を習った故事にちなんでいる。

中間点の標識があるということは耳にしていた。
意味なく心待ちにしていた


そのまま国道を進む。懐かしい交差点に出た。15年以上も前、ゴルフ仲間4人と車に乗り合わせこの交差点を右に曲がって「木曽駒高原CC」に2度ほど行ったことがある。
旅籠蕎麦「水車家」の大きな看板。お腹の虫は今食べたくないと言っている。再び中山道に相応しい街道に出た。

そして待ちわびていたものにとうとう出会うことが出来た。
「中間点」の標識だ。
「中山道中間点」京へ266km6728町江戸へ266km6728町。「ああとうとう半分歩きおおせた」。ここは少し時間を使って感慨に浸る。
宮越一里塚を過ぎた。また小さな村に道は続いていた。道端の家の屋根の軒先に直径1メートルほどのゴムプール。女の子が二人水着を着て水浴び。見ているだけで涼しい気持ちになる。

「明治天皇御膳水」の井戸。どうやら宮ノ越宿場に入ったらしい。スーパー「スズキ」に入り冷風に身をゆだねる。缶ジュースを一本買って一息に飲み干す。宮越郵便局が通りに面してあった。だが残念!。今日は日曜日だった。
「蕎麦屋さんはありませんか」
「もう少し先を左に行けば街の女性の会が運営している店がありますよ」。
そこには「ともゑ庵」という看板が架かっていた。

地元の老夫婦と60歳の義理の息子さんの3人が先客だった。ざる蕎麦を注文してこの人たちと話し込む。旅の心休まるひと時だ。歩いて次の宿、薮原に行く我々を感心した面持ちで見ている。老人が「疲れたらバスもあるよ」と親切に言ってくれた。息子さんがすかさず「歩いておられるんだからバスは要らんの」

もっとここで座り込んで話したかったがそうも行かない。写真を撮り記念の証として店を出た。

一軒しかない食べ処
「ともゑ庵」


「伝説の残る巴が淵」の掲示看板。

「蒼蒼と巴が淵は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く」

という句が添えられている。句の彫られたいくつかの石碑を通り過ぎて「木曽川源流の里」(木祖村)という大きな看板の前に来た。何日間か木曽川とは手を携えて歩いてきた。その木曽川の源流に近づいてきたようだ。(長い距離を歩いたのだなあ)という感慨とともに、木曽川との別れが迫ってきているのを寂しく思う。

細い田舎道、また国道。トンネルが見えてきた。今回2度目のトンネルだ。国道のトンネルだけに344メートルのトンネル内は車の轟音が凄まじい。後日、ビデオを見たが何故かビデオの音は控え目だ。実際は表現のしようがないほど凄まじい。

トンネルを出たところから何人もの人にすれ違う。程なくわかったことだが豊鉄バスの奈良井~宮ノ越バスツアーの参加者達だった。

本陣跡には木曽町福島支部
が建っていた、

「道の駅」「こだまの森7km」「権兵衛トンネル10km」の標示看板を見て「菅(スゲ」の信号に出た。崩落防止コンクリート壁に巨大な彫り絵が貼り付けてある。幅2メートル長さは10メートルほどであろうか。

再び「木曽川源流の里」の大きな縦看板を過ぎたら薮原駅が前方に見えてきた。


福し満 広重
現在の福島の関跡の姿から、当時を彷彿させる。
 
実は、予定していた時間より1時間も早く着いたので、一便早い列車に乗ることが出来た。

さあ、次回は「鳥居峠」。その次は最大の難所と聞く「和田峠」だ。
厳しい峠を2つ控えて、暑さ厳しい8月はお休みにして、9月から再開することにした。

英泉の薮原 旅の男2人と女2人。御嶽山が後ろに聳える。

次々回からは、各宿からの鉄道アクセスが悪く連続3泊の行程になる予定。