2013年1月28日月曜日

第29回中山道「浦和~蕨~日本橋」

(「中山道西から東へ」をお読み頂いたご感想については
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(最終回)
中山道第29日目  「浦和宿~蕨宿~日本橋」
                           25117()19() 
                                                                                                         
1日目 浦和駅1305発~
   蕨(西川口ステーションホテル)着 18時間05
                        歩数27359
2日目 蕨宿(西川口STホテル)835発~
     三越(日本橋18時間20分着      歩数40514歩   
3日目 御茶ノ水駅1005発~
      日本橋1130     歩数8525歩   
    
75歳にひと月を残す6月に京の三条大橋をスタートした足は、満76歳を6ヶ月過ぎた1月に江戸日本橋を踏んだ。

2年と6ヶ月、回数にして29回、日数計算では41日かけて533kmを歩いたことになる。
実際は、間違ったルート歩いてしまい、次回に正しい中山道を歩き直したり、歩行途中で間違いに気がついて正しいルートへ引き返したことは数度ではきかず、実際は550km以上歩いているように思う。

雨の日もあった。暑い日もあった。寒い日もあった。そして私にとっては、新しいキャラバンシューズが足に合わず、靴擦れと、足の擦過傷に悩まされた「和田峠」の一番辛かった苦しい思い出がある。それが中山道で一番厳しい20kmの峠道で起こったのは不運であった。


最難関和田峠

登り10km、下り10kmの和田峠がアクシデントも重なった私には最もきつい難所であった。
それでもその翌日は和田宿から18,3km先の望月宿まで歯を食いしばって歩いたが、一夜明けた次の日の朝、足首から先が大きく腫れ上がり、無念にも次の日の予定を中止して引き返さざるを得なかった。足の痛みに加えこの夜はもっと恐ろしい目に会った。峠道を降りきった所で山中の国道142号線に出た。この頃はもう辺りは真っ暗闇、自分の居る場所さえわからない。やむなく宿泊予定の旅館「本亭」へ電話を入れたが「今どちらに居ますか?」言われても、自分の居る場所が真っ暗闇の山の中では言い様がない。とにかく下り道を辿りさえすればなんとかなるだろうと142号線を歩き出した。
しかし夜の国道の恐ろしさをすぐに思い知ることになる。100キロレベルの猛スピードで大型トラックがひっきりなしに走る。歩道は車道に引いたガードレールとの間隔が僅か80センチほどの幅。トラックが来る度に、背中のリュックを引っ掛けられないようにガードレールの外へ身を避ける。自分の体と走るトラックの車輪は1メートルほどしか空いていない。もちろん運転手からはこちらの姿は見えるはずはない。トラックが走り去る度に素早く先を急ぐ。トラックのヘッドライトが見えたらまたガードレールの外へ身を避ける。こんなことを1時間以上繰り返して先に進んだ。後日振り返ってみてもあの夜の行動は無謀であったと思う。よく事故にならずに済んだと思う。国道が142号線だったのも縁起が悪かった。一番に死ななかったのは幸運だった。

冠雪の浅間山

太平洋を友として歩く東海道とは対照的に、中山道は日本の山々を友達として歩く事になる。まず三条から大津への峠は逢坂山、草津から暫らくは、伊吹山の雄姿に疲れを忘れさせてもらいながら歩いた。伊吹山と別れたら次に会ったのは鈴鹿山系。大きくはないが姿や形のいい恵那山も印象的だっ
た。まさに木曽路からの眺めであったこともその印象を強くしたのだろう。次に現れ出たのは3067m西日本最高峰の御嶽山。御岳山、みたけさん、など読み方や文字の同じような山の名前が東京都や秋田県など日本にはいくつかある。

次に出会った浅間山は季節が冬であったので冠雪した壮大なスケールで見ることになった。
雄大さという意味ではこの浅間山が最も印象に残った。連合赤軍によって引き起こされた昭和47年の浅間山荘事件。あの時連日テレビにかじり付き、大きな鉄球が河合楽器の山荘の壁面に叩きつけられるのを、ハラハラしながら見ていたのを思い出しながら、銀色の雪に覆われた雄大な峰を眺めながら歩いた。

雄大ではないが碓氷峠を降りた時に目の前に現れたなんとも言えぬ奇妙な形の山には度肝を抜かれた。これが妙義山であった。長い道中で度肝を抜かれた光景は2つあったが妙義山はそのうちの一つ。
その後に現れるのは、標高1828mの赤城山や上毛三山の一つ榛名山があるが、中山道もあの奇妙な形をした妙義山を最後に、坂本宿辺りからは山とはおさらばして平地になる。山を身近なお友達として歩くのは峠の釜飯でお馴染みの坂本宿、駅名では横川が最後になった。

大和田建樹さんの作になる有名な「鉄道唱歌」北陸地方編第17節に妙義山を詠んだ歌詞がある。言い得て実に妙である。

「鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門高く雲をつく」


もう一つの度肝を抜かれた光景は、安中市の駅を過ぎて広い通りを歩き出した時だ。右の山肌にそそり立つ異様な光景。何かの本で読んだが「悪の巣窟のよう」と表現されていた。思わず「あれは何だ!」と指差したくなる光景だ。これは安中市中宿に建つ東邦亜鉛安中精錬所だということはあとで知った。


街道筋で郵便局を見かけたら、1000円貯金をすることにしていた。休祭日は記念スタンプがもらえないためパスしたが、草津矢倉郵便局で始めた1000円貯金が、最後の日本橋郵便局の1000円できっちり50,000円になった。わずか数十センチの一歩が、その小さな積み重ねで55万メートルの彼方にまで移動できるように、1000円の積み重ねが5万円になる。

多くの人に出会った。一人で峠の下り道を「蛇が出た!」と叫んで降りてきた50歳絡みのご婦人が居た。山小屋で大の字に寝ていたオーストリアからの若者が居た。畑仕事のおばさんは柿をもぎ取リ,大根を抜き、その上大仁田ネギの苗までプレゼントしてくれた。
「ここは中山道ではありませんよ」と教えてくれた人は一人や二人ではなかった。小田井宿から追分宿の道すがら、畑仕事中の農夫に間違っていると指摘された時には、既に引き返すにはあまりにも距離があり過ぎるので日を改めて正しいルートに再挑戦したこともあった。

550kmを超える道中を歩く間には多くの人たちに助けてもらった。こちらが尋ねなくても声をかけて頂いて助かったことも数知れずある。人間世界では一人では生きて行けない。助けあい手を差し伸べ合いながら生きてゆく。中山道行脚も人生の縮図といえる。
多くの人たちの親切に助けて頂いたからこそ、完歩出来たと思う。このブログ上で改めて御礼を言わせていただきます。

1日目117()


調神社

水辺公園

寒い。やはり寒い。それでも元気に最後の中山道に向かって歩き出した。浦和駅をスタートしたのは135分であった。幸い天気は良かった。最初のチェックポイントは「調神社」、「つきじんじゃ」と読む。この「調」という字は「租庸調」の「調」の意味だということは説明文ですぐに解った。参道両側に寄せられた雪を見てまずは旅の無事を祈る。「さいたま市立南浦和小学校」を過ぎま「六辻」の信号を渡る。しばらく歩くと平成3年に開園したという「六辻水辺公園」。入り口から続く道の左側に添って、自然石で仕切られた幅1メートルほどの水路が作られてある。
ここで最初の小休止を10分間とることにした。
実はこの水辺公園から歩き出して間もなく、本日第一回目の道の間違いを仕出かした。センターラインに沿って行けばなんという事はなかったのに、V字型の右の道がなんとなく中山道のような気がしてそちらに機嫌よく歩いてしまった。幸いこの時は300メートルほど先で、親切なご婦人に指摘され正道に戻った。それほど大きなロスにはならなかったのは幸いであった。
「旧中山道一里塚の跡」と言う比較的新しい石柱を道路の左側に見る。「蕨宿」に入った。錦町6丁目3番地の道路際に「中山道蕨宿一番地」の木製縦型の標識。その足元には20センチぐらいの高さで雪がかき寄せられてある。「境橋」を渡る。渡るといっても長さ2メートル半。渡ったという感覚は全くない。錦町5丁目に来ると「一六橋」がある。一と六のつく日に「市」が開かれたことがこの名の由来だとわかる。長久山宝蔵寺の前を過ぎる。「中山道蕨宿」の石柱で記念撮影。この宿内の両サイドの歩道には、40センチ角で中山道69宿場の、歌川広重と渓斎英泉の陶板絵が埋め込まれてある。錦町1丁目の信号を過ぎると「戸田橋」「巣鴨」の文字が交通標識に現れてきた。もう目的地も近い。実は今日は蕨宿内ではなく少し板橋よりの西川口に宿をとってある。

ビューティサロン いとう

本日2つ目のミスをどうやらこの辺りで仕出かしたようだ。ホテルに向かって曲がるべき道をはるかに通り過ぎてしまったようだ。このためホテルまで行くのに1時間ほどロスをしたと思う。
辺りがすっかり暗くなった頃、一軒のビューティサロンで道を訪ねた。「いとう」という看板の架かったお店のご主人や家族の方たちが実に親切で、お店の中に招き入れて頂き、丁寧にホテルへの道をインターネットで調べて教えて頂いた。心身ともに少し疲れが溜まっていた頃合いだったので、親切さとお店の中の温かさが実に嬉しかった。ホテルの所在地とともに、「いとう」の奥さんに教えてもらった駅前通りの「お好み焼」へ行ってこの日の夕食にした。この店の名前が「道頓堀」というのも大阪から来た身には馴染みやすかった。


2日目118()
昨夜の宿「西川口ステーションホテル」は、お髭のおじさんが一人で対応していたが、部屋は予想とは違い大きく、バスルームもこのクラスのビジネスホテルにしては広々していた。
さて、この日のスタートは従来より1時間ほど早い830分。
西川口駅、おにざわ橋、中町一の湯、下戸田二丁目の信号、を経て国道17号に出る。この17号線にははっきり「中山道」と掲示されている。「川岸一丁目」の信号、そして「戸田橋」。1978年竣功(工ではなく功と書かれている)のこの橋を渡っていてふと(多分東の方)見ると、遠くではあるが富士山が見えた。鴻巣から熊谷への途中で荒川堤を歩いた時に、中山道行脚途中では初めて富士山を見たが、今回は久し振りかつ2度目の富士山だ。
河堤の壁面には未だ雪が真っ白に張り付いている。

この辺りの国道17号線にはいたるところに「中山道」の表示が架かっている。その横に「日本橋16km」の表示が見えた。
「板橋東清掃事務所」の建物を過ぎると、「日本橋」への表示は15kmに替わっていた。
「蓮根川緑道」と書かれた石門の上に子供の像が座っている。小さな橋の袂に書かれた文字はやっと「しんこぶくろばし」と読めた。
311号線」環八通りを越える。「華家与兵衛」の大きな看板を掲げたレストラン。日本橋への表示は14kmに替わっている。都営地下鉄「志村坂上駅」の前を過ぎる。

志村一里塚

後から追いついた地の人らしい男性が「中山道歩きですか」と声をかけてくれた。この人に教えてもらった「McDonald’s」で一杯100円のコーヒを飲んで15分間の小休止。
案内書にも書かれていた「志村一里塚」にやってきた。徳川家康によって日本橋から1km毎に築かれた一里塚も現存するものは少なくなって、都内では北区西ヶ原とここ志村の2ヶ所だけになっているという。今は区の史跡と指定されている。この一里塚の足元に「板橋10景」と言う表示があり「赤塚溜池公園周辺」以下10ケ所が紹介されている。志村警察前を過ぎると日本橋への表示は13kmになっている。
どうやら国道に並行して「旧中山道」があるらしいのでそちらに移動することにした。これまでの経験からこんなことはよくあることを学んでいた。「板橋清水郵便局」を過ぎる。嬉しいことにこの辺りは「旧中山道」の表示をいたるところで見ることが出来る。
板橋区の登録文化財「縁切檜」にやって来た。離縁や断酒を望む人たちには好都合な木も和宮下向の際には迂回してこの木を避けたと説明板には記されている。
掃き寄せられた雪の塊の中に「中山道板橋宿」と、判読しづらい文字で書かれた石柱が建っていた。宿内に架かる小さな板橋に「距・日本橋二里二十五町三十三間」と縦長の木製の標柱。「旧中山道仲宿」の信号横の商店街入口ゲートにはゆるキャラ君が座って歓迎している。板橋区役所の前を過ぎて暫く行くと「くうかい」と看板を掲げた蕎麦屋さんがあった。お腹が空いていたこともあって、ここで注文した「かもなんばん」は実に美味しかった。鳥肉も本当の鴨であった。1000円でもコストパフォーマンスでは満足だった。
「中山道一番目の宿場」と書かれた道路際の説明板に少し抵抗感があった。私たちにとっては「六十八番目の宿場」だ。ひと目で元お風呂やさんとわかる建物の前を過ぎる。
再び国道17号に合流。「巣鴨2km」の表示看板のあたりで、道行く男性に中山道はこの通りでいいのかどうか確認した。予測通り「旧中山道はあちらですよ」という答えが返って来た。そして「近藤勇のお墓もその方角ですよ」と教えてくれた。今日は時間に余裕があるので立ち寄ることにした。
巣鴨北中学校、庚申塚駅から、庚申塚商店街に入る。随分以前に来たことがある「おばあちゃんの原宿」にやって来た。前に来たときは今日とは逆の方角から来たのでこの商店街がこんなに長かったとは今日はじめて知った。「猿田彦大神」を過ぎ、「とげ抜き地蔵尊」にお参り。地蔵さんに水をかけている人が今日も跡を絶たない。「真性寺」を過ぎると「JR巣鴨駅」前の広い通りに入る。
「すがもばし」「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」舗装された道路の道端に雪で作った「カマクラ」が溶けることなく綺麗な形で残っている。温度も体感するよりは低いのだろう。それとも歩き続けているから寒さを感じないのだろうか。
「文京学院前」標識から「六義園」に寄り道する。17号線に戻ったらこの辺りでは「白山通り」となっている。

東大赤門

日本橋まであと6km。「東洋大学」前を通る。柏原君が登りで驚異的な走りを見せたあの大学がここにあったのか。ここにも小さな雪人形が道端で日向ぼっこをしている。
本郷通に入る。東大正門から安田講堂に向かってまっすぐ続く銀杏並木を歩く。校外へは「赤門」から17号線の通りへ出た。
本郷三丁目の交差点の交番所で、日本橋へ行く旧中山道の経路を訪ねたが、二人いる警官のどちらもあまり自信がないようだった。実はここに来て道を迷うことになった。何度も道を訪ねたがその度に聞き方が良くなかったのか、教わり方が十分でなかったのか混乱してしまった。少し陽が長くなったとはいえ、辺りはすでに暗くなってきている。日本橋到着は明るい日差しの下でのほうが望ましいと思い、今日は電車で宿泊ホテルまで行き、明日残りの中山道を日本橋まで歩くことにして。この日は神保町から地下鉄に乗って三越前まで行った。

3日目119()

湯島聖堂

昨夜は小伝馬町の「魚久」という和風料理店で、在京同級生のM君を誘い中山道完歩のささやかな祝杯を上げた。永年の経験で、東京での食事に美味しいものはないと覚悟して箸をつけるが、この夜のしゃぶしゃぶは大変美味しかった。

さて御茶ノ水駅前から最後の中山道が始まった。最後ぐらいはゆっくり時間を気にせず歩きたい、まず駅前の湯島聖堂に参拝。東京医科歯科大学の門前で写真を撮って、次に訪れたのは、神田明神。境内の片隅には未だ1メートル近い雪が残っている。今日は日曜日もあってか参拝客は多かった。万世橋の交差点と橋を越え、靖国通り、須田町を過ぎ、神田駅北口信号を渡れば日本橋まであと1km。マラソンで言えばトラックに入って第4コーナーを回り最後の100mの直線に入ったところだ。室町4丁目,3丁目,2丁目、目の前の終着点日本橋をスッキリした心で迎えたい。三越デパートに入り手洗いに行く。六十数年前の終戦直後、ごの店にあの下山国鉄総裁はどんな気持ちで入って行ったのだろうか。

最終点に到着の感激はあまりなかった。険しい山道を登り峠の頂上に終着点があったなら達成感はもっとリアルだったろうが、どちらかと言えば道中を楽しみながら歩いた今回は疲れもそれほど激しくなく散歩途中で目的地に辿り着いたという感じであった。

              











蕨宿 渓斎栄泉
戸田川の光景。今は戸田レガッタで有名。


板橋宿 渓斎栄泉
中央の「庚申塚」の石碑が見える







日本橋 渓斎栄泉
日本橋から下流の江戸橋方面を描いたもの。